ひとはどこからきて、どこへ向うのか――。ときおり、紅葉する木々の隙間から、きらきらひかる海に目をやりながら、ふと思う。ひとのこころを動かす景色には、みなそこに詩があるのだ。ある随筆に教わった。瞬間瞬間、みな違う景色になんともいえない、いとおしさやかさしさやなつかしさが漂って、沁みる感じがするのは、そこに詩があるからなんだと思うと、とてもすんなりいろんなことがわかったような気分になって、安堵感がひろがるのを感じたっけ。祈りにも似た願いを胸に秘めながら、日々のささいな喜怒哀楽の流れの中に身を任せている。気負わず、焦らず、のんびりと…。そう言い聞かせながら…^^;。


なるたけ目立たず静かにいよう。昼間はほとんど、慣れた動きをこなしながら、ずっとそんな風にこころのなかで、遊んでいる。長閑で柔らかい日差しに恵まれる日は、それだけで嬉しい。できるだけお洒落もせず(もともと苦手なのだが…)、自分のことはほとんど話さない。他愛の無い馬鹿話や、自分の間抜けた失敗談を除いて。だれも、経歴も大学も知らないというのは、気楽でとてもいい。だけど、ときどき、ちょっと腹の立つこともあるにはある。言うにいえないもどかしさを感じることも…。まあ、取るに足りないことだけど。だから、余計に人間をわりと冷静に観察する時間に恵まれる。のかもしれない。でもたまに、酷いサンプルばかり見ても仕方ないよ~、とこっそり毒づいてしまう日もあるけれど…。


ある女優さんが、父を亡くした悲しみに打ちひしがれたとき、それを克服するためにそれを陵駕するようなもっと過酷な環境に身を置くことにした、と話すのを聞いて胸をつかれた。それを真似たというには、余りに微々たるものだけど、朝の時間を1時間半早めた。まだ暗いうちに家を出る。冬はつとめて…、だし。なあんて。でも、寒いけれど早朝の澄んだ空気を吸い込むのはとても気持がいい。南に向って車を走らせているうちに夜明けがやってくる。朝日におはようを告げられるのは、ちょっといいものだ。ただ、絶景が望める場所からのトワイライトに浮かぶ摩天楼が余りにも魅力的で、ついつい帰り際、自然にときどきその方角にハンドルを切っちゃうのだけど…。蛇足だが、その女優さんはこうも言ってたっけ。「仕事場にいるひとに好かれるためにきているひともたくさんいるけど。わたしは、仕事をするために来てるの」と。ちょっと、かっこいいと思った。


ところで。家というのは、外でいえない我儘が許され、心からリラックスできる、癒しの、和みの、安堵の場所なのだから、どこより居心地のいい場所にしたいもの。そんな風に思っている。まるで旅館の部屋のように余計なものがひとつもないのも、気詰まりで、かといってあまりに散らかっていても気が休まらない。空間というのも、やっぱり住む人の吐く息、つまりは気持ちのやさしさや風情を映すものなのだろう。だから、とても大切なことだと思う。そして、美味しいものを食べて、あらゆる鎧を脱ぎ捨て寛げる空間。そんな風にできたら…。だれかに何かを作るというのは、とても嬉しく楽しいことだと思う。それが好きな人のためなら、なおさら。たとえば、クラブやお釣りの渡し方ひとつで、そのひとのやさしさや気の持ちようがわかるように、どんなものでもひとがつくったものには、つくったひとの人柄が滲み出るのだと思う。