9番ホールのセカンドを打ったときに、何かがはじけて、ことばとなった。これで、やっと少し「ゴルフは人格」に近づけた、いや、それを考える入り口にやっと立てたように思えた。小さいがわずかな安堵がひろがった。ところがである。一瞬のひらめきというのは、すぐに反芻をしておかないと、再び一瞬にしていなくなってしまうものである。ことばに携わるひとにはわかってもらえるかと思う。それから、どんなに考えても思い出せない。もしかしたら、明日浮かぶかもしれないが、3、4年先になるかもしれない。それくらい、刹那、刹那に浮かぶことばの有り難さを感じずにはいられない。一年前にもらったそのことばは、もしかすると、一生考えるに値することばなのかもしれない、と思い、折に触れて噛み締めている。


負けるのが嫌だからゴルフは辞めたというひとの話を聞いて、何かにひっかかった。そのひとは単に、もとよりゴルフへの愛がなかっただけかもしれない。ともあれ。何かの鍵が隠れている気がした。負けるのが嫌なら、負けないようにすればいい。それも嫌なら、あるいは無理なら、勝ち負けに拘らずに済むひととまわればいい。恐らく、その人にとって、それは勝ち負けがすべてだったのだろう。(そこにはまた、勝負とは何ぞや、という別の命題が生まれるのだが…。ともあれ。)ゴルフはスコアではない、といってもその意味するところをちゃんと伝えることは難しい。一打一打を「とりあえず」にすることとは違う。もしどうしてもスコアだけが必要な時は、あらゆるリスクを回避すればいい。ちっとも面白くないが、いいスコアにはなるだろう。多少は。無論、そうしたから必ずそうなるものでもないが。美しいボールを打つということと、いいスコアでまわるということは違う。むしろ、両立はかなり難しいとさえ思う。なりふり構わず行くのか、骨を持ち続けることを誇りにするのか。それを両立させたいなら、プロ級の腕が必要となる。でも、プロのすべてがドラマのあるゴルフを出来るわけではない(と思う)。そこに難しさが潜んでいる。ゴルフを人生に、スコアをお金に、あるいは肩書きに置き掛けてみると、ますますその一筋縄ではいかないことがわかりそうである。そんなことを考えていたら、浮かんだことばだったのだけどなぁ~。ひとまず、人間とその周辺がわかる、ということばを捻り出してみた。


先ごろ、ひとつの決断に迫られる機会があった。些末なことだが。敢えて詳しく書かないが、「お礼を言え」と言われた。お礼というものは、強制されてするものでない。ひとは気持で動くものである。あ~そうですか、と言えるひとは、骨がないに等しい。そもそもそんな開いた口がふさがらない要求をしてくること自体が笑止千万なのだが。そんな相手にまともに取り合う必要はないと思った。それでも、世渡りという意味では、敢えて馬鹿になる方が賢者なのも分かっている。そういうことになった背景がいまいちこちらもわからないのだが、私にとってはまったくの寝耳に水。降って湧いたような厄災であった。恐らく、そこには、母の何がしかの思惑が隠れているような気もする。で、あるからして、本来なら他人に迷惑をかけることだけは避けるのが大人なのだろうが。しかし、(いささか大袈裟だが)ひとには、命を賭しても守らねばならぬ(武士の)一分があるのも事実だと思った。どちらを選んでも悔いが残る気もしたし、仲裁役の村の長老には悪いことをしたが、一筆詫び状を送った上で、信念を、沈黙を貫くことにしたのだった。ひとつの、憎しみが喪失感に代わるとき、そこには、ひとことでは表しがたい哀しみがひろがるものだと知った。それにしても、かんどうというのは、むしろ、愛と信頼が根底にあるからこそできることなのだろうと思った。棘の道だが、それに耐えられる者だけができる道でもあるのだろう。それらを皆わかったうえで、「どんなことでも受け容れる。いざとなれば、隣に部屋を借りてでも、最期まで面倒を見る」と、言い切る娘に、非礼を詫びつつも、それでも堅くなった殻を割ることができずにいるようだった。器の量が違いすぎても、互いに苦しいもののようだ。