もし、いちばん好きな色は何かと聞かれたら、茜さすたそがれのあの夕焼けのいろだと答えるだろう。二度として同じ色はない。それがなんとも切なく余計にいとおしさを増すのかもしれない。それから、あの炉のなかで燃える炎の色だろうか。余談だが、子供の頃から好きな俳優さんの趣味がたき火と聞いて、プロになったらなにをさておいても名鑑の趣味欄にたき火と書こう。そしたら、プロアマでいつの日か一緒にラウンドできるかもしれない。それだけでもプロになった甲斐があろう。なあんて、ひそかに思っていた。なんとも、はや。だけど、本人はかなり真剣だった。横道に逸れてしまった。話を戻そう。焼き物(陶器)を観るのが好きなのも、あの燃えるような釜の中の色が思い浮かぶせいもあるのかもしれない。鍛冶屋さんが叩くあの燃える鉄の色もそう。どうしてそんなに惹かれるのかはわからない。でも、いつまでも見ていたい色である。それから、曇り空の隙間から一筋の光が差し込んで、それが海などの水面をきらきら光らされるときの、あの色もたまらなく素敵だと思う。その日差しのことをある国では『道化師の涙壺』と呼ぶそうだ。
初夏の頃に頂いた本を、読み始めた。本を読むというのは、いつでもどこでもできるようでいて、これがなかなか難しい。旅先や、移動する車内など、適当な時間や空間が程よく整っていて、しかもそれがまとまって確保できる見込みがあるという恵まれた条件がないとまずいけない。無論、斜め読みでも用が済む本もあるし、その場合には別にそれほど空間は問題ではないかもしれない。それに、何より、読むというのは、美術館で大家の作品に臨むというのと同じくらいに、こちらの心の状態も整ってなければ、きちんと読むことはできない。そう思うから。おまけに、この本は、宛名まで直筆くださり、直接に渡してくださった本である。居ずまいを正して、ひょっとしたら正座して読むくらいの心意気でないと、失礼ではないか。その辺に寝転がって口あけて読めるようなものと一緒にしては罰が当たろう。とはいえ、あんまり緊張しすぎて、心の琴線まで固くしちゃいけない。なんて、あれこれ心構えと、心のゆとりができるまでと、思っていたら、季節が二つも過ぎてしまった。
それにしても、縁というものは不思議である。どんな縁でもやっぱり、望み続けていないところには、いかなる奇跡も起こらないものだろうし、仮にあったとしてもそれが縁なのだと分かるまでには育たない。そんな気がする。たとえば、お茶にしても、絵にしても、書にしても、それから陶芸でも、いつかできたら、やってみたいと願い続けているが、まだその時ではないのだろう。そのうちのほんの一つでも、本当に縁があれば、いつかひとりでにそれが出来る環境がやってくるのだろうと、いまはそう思っている。闇雲に、思い立ったから即実行、としてもうまくいかないだろう。ほんとうに永くつきあえるものは、無理をして始めるのではなく、自然にそういう流れが必ず訪れる。そう信じる。「あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」これは、ちなみに、松下幸之助氏のことば。たとえば、年に一度、いや数年に一度しか会えない友でも、会うたびにまた会いたいと思える友がいる。それが嬉しい。だからこそその時その時を大事にと思う。あるいは、年に一度年賀状を交わすだけの相手でも、かけがえのないつながりである場合もあるだろう。そういう小さな縁も含めると、少しずつ大きく育つものから、ひとりでに消えていくものまで、人の数だけ、いくつもの形や濃さがある。こうして綴る駄文にしても、いつの日か、に願いをこめた、ささやかだけどかけがえのないキャッチボールのひとつなのだ。