「たそがれ」の語源を紐解くまでもなく、この季節の夕暮れはことのほか寂しさをつのらせる。島国の四季の移ろいは、大陸のそれに比べ、季節のはざまでの行きつ戻りつが穏やかで、なんどもなんども躊躇いながら進んでいくさまに、情緒があり味わいがあると、書かれているのをどこかで読んだ。この世は無常、とこしへに変わらぬものはなにもないというけれど、四季の繰り返しだけは永遠に続いてきたのではないかしらん。そしてこれからもかわらず続いていく。もっとも、寒の戻りならぬ、暖の戻り、小春日和はかの国では、「老婦人の夏」というらしい。老婦人に失礼なのか、それとも夏に失礼なのか、深く考えるのはさておき、月の替わらぬうちから、聖夜にちなんだ音楽を耳にすると、なんともいえない寂しさのような哀しさのようなものを感じるのは、たんにわたしのこころがひねくれているせいなのかしら。いや、言い換えると違和感といっていいのかもしれない。この国の師走はもっともっといろいろな表情があってもよさそうなものなのに。いつからあんなに猫もなんとかもみたいになっちまったのだろう。


起き抜けに見る夢は、ときにいちにちじゅうあたまのなかで巡っていることがある。いい夢のときは、無論、永久にリプレイさせていたいものだが、滅多になく…。ガブなんとかという天使がいきなり現れて、宝くじの当選番号を決めるみたいに矢を命中させて、順番に相手を決めていく。はい、あなたはあれ、そこのきみはあのひと、と。いやだ、いやだ、そんなのは絶対にいやだと叫んでいたのか、思っていたのか忘れたが、そしたら目覚ましが鳴った。ふ~。なんともはや、お調子者というか、能天気というか。われながら、なさけない。見る夢のレベルは保育園の頃と変わってない気もする。ときどき、声がする。「もう、待てない。とにかく、いちど書いてみろ。今しか書けないかもしれないじゃないか」「いや、まだだめ。もしかりにそうでもいい。それならそれでいい。そんな簡単なものじゃないんだ。書くってのは」「ただの臆病なんじゃないのか。あるいは怠惰」「かもしれない。一歩が踏み出せない。怖い、のかもしれない。でも、一方で思うんだ。書きたいことは決してなくならない。生きている限り。それだけはなんとなくだけど、ちゃんと分かっている気がする。だから、まだ。ちゃんと機が熟すときがきっとくると思うから。それまでは、じっとしている。なにもしないことにも、ちゃんと意味があるんだ」って。もちろん、夢のはなし。


野球への特別な想いは恐らく、一生変わらないだろうと思う。確かに、ゴルフだって深遠な魅力があるけれど、純粋な想いというのでは、まったく足元にも及ばない。説明が難しいが、野球といってもどこのチームが勝つこととか、だれのする野球とか、そういうのとは違う。恐らく、この先、プレイすることはそうないだろう。でも、いまでもキャッチボールがしたいと思うことはいくらもある。ゴルフとて、確かにだれと一緒にラウンドするかで全く空気が違うし、ひとつのコミュニケーションだと思うけれど、キャッチボールで感じるそれとはやっぱり違う。あ~、うまくいえなくて少しもどかしい。ゴルフを観ていて泣きそうになることないけど、野球はある。突然に、涙が溢れることがある。かつての、いったいなにとなにが重なったのかわからないけど、不意にそんな感慨がやってくることがある。そのときのあの白球は、ただのボールではないのかもしれない。子供の頃、無心で追いかけていたあの白いボールへの胸のときめきは、永遠に生き続けているのだろうか。それとも、生はいつも、死と隣りあわせでいるということを、教えてくれているからだろうか。いい音楽や、いい絵画にも厚みのようなものがあるんだと、最近少しわかりかけてきた。そして、なにより文章にも…。いつの日か、それを形にできるときがくるといい。