藪から棒だが。このごろおもうのは、想いや信頼が深くなればなるほど、ことばにするのが難しくなるということだ。いいたいこと、つたえたいことはいっぱいいっぱいあるのだけれど、でもそのほとんどはことばだけでは表しきれないような気がすると。きっと核の部分ではわかりあえてると、信じられるそのことがなによりもありがたいことのような気もして。おんなは、どうして、自分の中でわきおこる、直感というか感覚にかくもこれほど自信をもてるのか、自分でもわからない。でも、そうなので仕方がない。いつかの鍵括弧の中のことばにしても、まるで、神さまがわたしのこころを見通して、代わりにそこに書いてくれたのではないのかしらん。まったくおなじことをおもっている。そんなことは、ひょっとしたら不思議でも何でもないことなのだろうか。
たぶん、おそらく、だれの人生にも、幸と不幸はおなじだけやってくる。無論、そのひとの器量やちからに見合った程度でしか現れない、という見方もあるようだけど、試練や苦労を避けて通る道ばかりを選んでも、それに代わる試練は必ずやってくるのだろうし、どんなことでも、時間がたてば結局なにが幸で不幸かなんて、簡単には判別できない、ということもできるようにおもう。ただ、不幸ははっきりとした形で大抵現れるから、ひとに分かりやすいけれど、幸は、努力しないと、あるいはそこにあるものに気づける力がないと、実感するのが案外難しかったりするから、おなじだけというのが理解されにくいだけではないかとおもう。ともあれ、そのどちらも、それをうけとるひとのこころのなかで生まれて育つものであることだけは違いないような気がする。すべてのひとがそんな風に思えたら、争いごとのいくつかはなくても済むのだろうけど。
かつて、言われたことがある。プロになるには、勝負根性がかけている。ひととしてはとてもいいことなのだけど、と。ずっと後になって、確かにひとに勝つために何かをしたいとは、思えない自分に気づいた。手段を選ばず勝つことよりも、もっとたいせつなものがあるように思える。それで、別に評価されなくてもいい。自分の生き方を評価するのもできるのも、結局は自分のこころだけなのだから。たとえば、ゴルフで難しいライほど燃えるとか、厳しい条件ほど挑戦してみたいとか、というのは自分がどこまで耐えられるか試してみたいという気持にも支えられているから。結果だけがすべてではない。どんな気持で時間を過ごしているか、なのだと思う。それが結局は結果にもつながる。のだと思う。あるとき、友人が、本当に相思相愛なんてないのよ、と溢していた。そうですかねぇ~。相槌を打ちながら、さまざまをおもった。そんな簡単にあっては困るのよ、といわれている気もして、胸の中がはっか味になったのを覚えている。それぐらい、決して簡単ではないけど、でも確かにちゃんとあるんだ、と反対に再確認させてもらった。そんな気がする。