大人になると、熱を出すなんてことが滅多にないので、夜になって突然、熱がどんどん上がっていくと、不謹慎だが、内心、お祭りのような騒ぎになる。おいおい、このままあがり続けたら…。確かひとは、42度を超えると死んじゃうんだよね、と、大袈裟を少し考えたり、でも、どこかでちゃんと大丈夫なのはわかっていて、熱に茹だり、なんとも日常ではありえない気だるさをどこかで愉しんでいたり…、するのだ。もっとも、あたまの片隅では、明日の予定をキャンセルしなきゃいけなくなるのはちょっと困るなと、現実的なことも考えてはいるのだが…。ともあれ、それだけのことを思える余裕があるからには、ちゃんと一晩眠ると、ケロッと嘘みたいに治っているのであり。嬉しいような、でもちょっと寂しいような。まあ、戯けたことには違いない。ところで、熱というのは、からだが何かの毒を必死に熔かしているように思えるので、なるべくなら薬に頼らず、からだの解毒のちからに任せるのがいちばんだと、勝手に解釈している。
解毒といえば、さわやかな短編小説にも、そんな効用があるように思えてならない。疲れて、少しかたくなったこころを、決して「こうしなさい」というのではなくて、やさしい風のように気持のこりをほぐしてくれる。どうしてそんなに好きなのか、自分でもよくわからないが、野球が、キャッチボールが好きなので、そのこころにあらためて気づかせてくれるような短編に出会えると、とてもしあわせな気分になる。女性のこころがどうしてそんなにわかるのだろうと、感心しつつも、憎しみを消せないでいる年配女性の心理描写を読みながら、そうか、ときどき理解に苦しむ母のあの頑なさは、これまで必死で不幸になることを恐れてきたその意地の名残なのだろうか、と冷静に眺めることができたり、する。ほんにひとのこころほど、むずかしいものはないのだろう。素直になろうと思えばいくらでもなれる(はずな)いっぽうで、頑なになればどこまでも頑なになってしまうもの。思いがけぬところに特効薬があったりする反面、そうしたいと思っているときほどかえってできなかったりするものだ。でも、あの殻が破れたときの、固さが解けたときの、よろこびは、感激は、とてもことばにできないものがあるから…。ひとはことばを探しつづけ、絶好のタイミングで出会える(はずの)ことばを待ち続けているのだろう。自分らしさを残しつつ、少しずつ冒険もしてみる。幾つになっても、そんな姿勢でいられたらいいな、ふと思う。
年上の友人が、ほとんど使っていないバッグを下さるという。ほかに欲しい方があればどうぞ。そう、遠まわしにご辞退を試みたものの、先方はただの遠慮と解釈くださったようで…。(私の辞書に遠慮はないのに…。)決して、その方が嫌いなわけではない。だが、うまくいえないけど、お古というのはどうも…。とはいえ、かつては余りに洋服に頓着しない私を見かねて、友人や先輩たちがお古だけど…と、ゴルフウエアを分けてくれたのを喜んで着ていた。だから、別に潔癖症ではない。ただ、ものにも縁というものがあるのいうのがわかりはじめてからは、なんでもかんでも使えればいいという感覚が減ってきた。シンプルでありたい、と。かっこよさと、要領のものさしが変わってきたというか…。ともあれ。せっかくのご厚意を無下ににもできず、ありがとうございますというしかないのかなぁ、と少しブルー。こういうときは唯一コミュニケーションの限界を感じないでもない。それにしても、本の数に比べたら、服や鞄は持っていないというにも等しく。最近やっと、標準サイズの洋服が横も縦もピッタリの恩恵に預かっていることに気が付いた間抜けぶり。シンデレラの靴の意味がわかった気がする。確かに、気持いい。でも、シーズンにひとつ気に入ったものが見つけられたらそれで充分、と感じるのはかわらないから、洋服のお洒落に目ざめるのはあと100年くらいかかるのかもしれない。