タイトルは忘れたが、街角の本屋さんで、たまたま手にした本を開くと、目に飛び込んできた一行にあった。お酒を飲めないひとは、人生の半分しか生きてないのようなもので、まことに可哀想だ、と。筆者の山口瞳さんが。ふ~ん、そういうものなのでしょうか。お酒が飲めなくったって、雰囲気のいいバーの空間をたのしめるだろうし、別に特段損してるとも思わない、と思うこと自体、可哀想なことなのでしょうかねぇ。年に一度くらいは、嗚呼、少しぐらい飲めたらいいなぁ~と思うこともあるけれど。ふたんの日々は、お陰で、別のことにたくさんの時間と空間を使えるからむしろ、うれしくさえあるのだけれどとさえ、思っているのだが…。う~ん。わからない。でも、そういわれると、ちょっぴり残念なのかなぁ、とほんの少しだけそう思わなくもない。
三ヶ月のAbsenceを取り戻したいと、自分の中の細胞が叫んでいるようで。街を歩くのがたのしくてしかたがない。こんな素敵な街がこの世にあったなんて。あらためて、つくづく思う。もしかすると、こんなたのしい街を知らずに終わっていたかと思うと、切なくさえなる。平面的なことばではとてもいいあらわせない、魅力的な空気がいつもそこにはあるのだろう。そのかたすみに、ほんの少し触れるだけでも、どんなに癒され、いい刺激をうけることか。街がそうであるように、ひとも、いいひとに出合えると、しらずしらずにいい方向に変わっていけるんだ。互いが互いの眠っていた才能を、感性をひきだして、気が付くと、肩の力が抜けて、素直に生きることに目が覚める。そんなことが実際にあるから、人生とはすごい。生きるとは(人生とはだったかもしれない)、自分の物語をつくることなんだ。そんなタイトルの本を目にした。なるほど、いい表現だと思った。本の世界に、教えられ、育まれる情緒や感性ははかり知れない。
先ごろ亡くなられた俳優氏のエピソードにあった。好きな骨董屋を訪ねると、一気にざぁーと見てまわる。ほんとうに縁のあるものは、向こうから自然に飛び込んでくる、と。ひとつひとつゆっくりみていると、かえってその“気”に気づけないのだ、と。商品との出会いも運、いや縁のひとつなのだろう。予め、○○を買おうと思ってお店に行く。出会える日は、つまり縁がある日は、ほとんど最初の数分に自然に目に飛び込んでくる。それ以上いくら歩き回っても、ピンとくるものは現れない。授業時間の長さを過ぎると集中力が衰えれくるのもあるのだろうか。いい出会いに恵まれた日は、それだけでしあわせな気分になれるもの。そういえば。さきの氏が、毎年暮になると、檜の風呂桶をぶら下げてやって来てくれる、そうなんとも嬉しそうに書かれていたのは、池波正太郎さんだったろうか。ほんとうの友とは、そういうものなのだろう。かりに年に一度しか会えなくとも。会えるのをずっと心待ちにしている。会うたびに、また会いたいと思う。それにしても、それはなんとも素敵な贈り物だと思った。