「まったり」というのを、辞書で調べてみたら、載っていなかった。もっとも、中学に進学してもらったときに買ってもらった小型のものだけど。よく、「いつも、家で何をしているの?」と、聞かれるのだが、その真意がさっぱりわからないでいた。なぜなら、自分は、だれかにそんな風な疑問を投げかけようと思ったこともないし、そんな疑問文さえ思い浮かばないから。それは、興味がないというのとは、無論違う。公私をわけると、ことばで言うのと実践するのはまた別のようだ。それにしても、日本人は元来それが苦手らしい。相手のプライベートを知ることが親しくなることの必要条件のよう。「私」の部分は見えないのが普通、という感覚にはならないらしい。それに、ひととおなじ、前のひととおなじ、が大切みたいで。「私」の時間をどう使うかはそのひとそれぞれの自由だろうに…。と、能天気なわたしなどは、そう思うのだけど。ともあれ、でもちょっと質問者の意図がわかった気もした。何をするでもなく、気づいたことを書き留めたり、手帖に予定の覚書をしたり、情報収集をしたり…。時計をみないで過ごす休日のなんと贅沢なこと。退屈しないというのは、ほんに恵まれた性質のひとつなのかもしれない。
あるひとが。テレビの中でだけど。頑張らないのがわたしのモットー。強いて頑張ってすることといえば、自分が居心地のいい空間をつくることには、努力する。そう答えていたのがとても印象的だった。病気をすると、いきていることのありがたさをつくづく実感させられる。と、同時に、もし明日死んでも、悔いがないと言えるようにいつもいたいと思うようにもなる。楽しみをなるべく後にとって置くほうが、頑張れることもある反面、やりたいことはどんどん躊躇わずに挑戦することの大切さも思い知る。無論、バランスだとは思うけれど。そう、10分間の休み時間があんなに充実するのは、50分の授業時間があるからでもあり。時間の使い方というのは、ほんに難しく、たいせつなこと。一生は、何もしないには余りに長すぎて、何かするには余りに短い。そういっていたのは誰だったろう。仕事というのは、何にせよ、そのひとの自由と時間を捧げることで、そこにどれだけの気持をのっけることができたかで、随分違ってくるのだろうな。遅ればせながら、ふとそんなことを思ったりもした。長く貴重な休暇の間に。
してみると、おんなの仕事は何でしょう。もし、たいせつなひとを、家族を、一生かけて愛することだとしたら、歳を重ねたときの顔立ちがそれを表しているように思う。慈しみが、いつしかひとりでに顔の中に滲みでてくるよう。生まれつきの美醜とは関係なく。生き方が潔くて、ほんとに素敵だと思う方が何人かいるけど、凛とした美しさが漂っているように見える。勉強ができる、教育が受けられる、知識が増える。それ自体は、とても望ましいことだけれど、そのことで、たいせつなものに気づくのがどんどん難しくなっている。そんな気がする。今の時代は。ときに。エッセイなどを書きながら、暮らせたらどんなにいいだろうな、ともふと思う。無論、いまもうすでに書いているけれど。こうして。「大人のゴルフ」というのを、いつかできるといいなとも思っていたが。ふと、気づいた。大人がゴルフをするのではなくて、ゴルフがひとを大人にしてくれるんだ。と。作家とは、ただ静かに、でも決して冷めない情熱を燃やして、人間というものを見つめる作業をしているひとなのだろうか。音楽や画が、作者の魂を削って何かを伝えるために自然に表出してくるものだとしたら、文章だってきっと同じ。ほんの少し、何かがやっと分かりかけた気がしたのだが。