吉野弘さんの詩に、「ほぐす」というのがあったのを思い出していた。ことばはこころの鏡。文明や科学がどんなに進んだとしても、ひとのこころ模様だけは、何千年前から変わらない。焦らず、ゆっくり、根気よく。とはいえ、その都度、「短気は損気」を思い出し、恥ずかしさと自分自身の学習のなさに苦笑することばかり。つくづく、ばかだなぁ~とためいく。▼でも、ひとは自分の力ではどうしようもない事態が、突然目の前に起きたらやっぱりたじろぐ。平静を欠く。たとえば、健康の問題がそう。あるいは天災、あるいは突然、会社がなくなるなど。恋人に振られる場合もそうだろう。どうして自分が?と思う。どんな非があったというの?と。頭に血がのぼる。ある歌詞に、「待てというなら二千年でも待ちましょう。散れというなら夕暮れまでに散りましょう」というのがあるけれど。ほんとうの愛なら、相手の希望が叶うことを優先し、無私にもなれるだろうと思う。そうでないから、余計に縺れる。ともあれ、北風が強くなればなるほど、ひとはコートの襟を強く握り締める。
コートは心の殻の象徴なのかもしれない。ひとは、頭ではわかってもこころがわかるまでに時間がかかる。だから、そんなときほど、太陽にならないと。だがそれはとても、しんどい。それでも太陽に叶うものはない。そんな気がする。
▼縁起でもないが、たとえばもし理不尽なかたちで命を奪われることがあるとして、たとえどんな形であったにせよ、そのかなしみを怒りに変えて家族がその一生の時間を、誰かを攻め立てることに費やすことを望まない。怒りに変えずに、かなしみを受け入れることがどれほどの努力が必要か。それでも、家族の大切な時間を奪いたくない。怒りで埋めてほしくない。そんな風にいえるひとが、はてどれくらいいるだろうか。わたしとて、もし逆の立場ならと思うと、自信は揺らぎそうな気もする。時間と、誠意を尽くして、みなが少しでも納得できる形を、あきらめずに模索する。どんなときもでも、それはもっとも難しいことだが、もっとも大切なことでもあるのだろう。生意気だけど、ふと、そんな風に思った。
コートは心の殻の象徴なのかもしれない。ひとは、頭ではわかってもこころがわかるまでに時間がかかる。だから、そんなときほど、太陽にならないと。だがそれはとても、しんどい。それでも太陽に叶うものはない。そんな気がする。
▼縁起でもないが、たとえばもし理不尽なかたちで命を奪われることがあるとして、たとえどんな形であったにせよ、そのかなしみを怒りに変えて家族がその一生の時間を、誰かを攻め立てることに費やすことを望まない。怒りに変えずに、かなしみを受け入れることがどれほどの努力が必要か。それでも、家族の大切な時間を奪いたくない。怒りで埋めてほしくない。そんな風にいえるひとが、はてどれくらいいるだろうか。わたしとて、もし逆の立場ならと思うと、自信は揺らぎそうな気もする。時間と、誠意を尽くして、みなが少しでも納得できる形を、あきらめずに模索する。どんなときもでも、それはもっとも難しいことだが、もっとも大切なことでもあるのだろう。生意気だけど、ふと、そんな風に思った。