このごろ、ぐちをこぼしてばかりでほんとに申し訳ない。そんな気持ちでいる。やさしさがとても身にしみる。伝える、伝わるということの嬉しさ、有り難さをただただかみしめている。何度も、今度こそどんなに言われても許そう、やさしくしようと思いなおすのだが、そのたびに、無意識に発せられる棘に勝手に傷ついて、まったく別のところで感情を爆発させてしまう。そして自己嫌悪と、相手が気づかぬ相手の心の醜さへの嘆息のブレンドで、ひとりへこんでいる。とはいえ、心のどこかでは、まあ、そのうちなんとかなるでしょ、とも思っている。彼女への願いとしては、いつかたとえ一日でも心安らかになれたらいいのにな、ということ。自分がなんとかしなきゃと、思うのはよそう。あんまり頑張るのもよそう、と。決して、投げやりにではなく。何を言われても、「あ~そうですね」といえるようになろう、と。実際にはちょいと難しいけれど。
人生は泣き笑い。落語はそんなことをその軽妙な語り口の中に乗せて、伝えているのだとか。聞いてみたい。このごろときどきふとそう思うようになった。ひとにやさしくしたいとおもうのは、自然なこと。別に見返りを求めるわけじゃない。ばちがあたりたくないからなんて、奇麗事とも違う。嫌なことは嫌である。そんなこともたくさんある。ささいなことに腹がたって、どうにも収まりがつかないこともいくつもある。それでも、だれかに、あるいはなにかにやさしい気持ちになれるときというのは、ただそれだけで気持ちがいい。損だとか得だとか、そんなことはどうでもいい。ひとはただ、食べて寝るだけでは生きることに価値を見出せないというのと、同じことかもしれない。ひとを好きになって、そのひとのことを考えるだけでも、嬉しい気持ちになれるのと同じように。自分は~~だから、~~しなきゃというのじゃなくて、~したいからでいい。できることをできるときにする。そのときはその意味なんてわからなくてもいい。無理はしない。したくないときはしないでいい。そ
んな風に楽をすることにも、罪悪感なんか感じなくてもいいんじゃないか。どんなことでも、後になったら何がしかの意味を感じられるものだし。っと、自分にいいきかせているのかな。てへ。好きなひとを想うときに自然に沸き起こってくるやさしい気持ち。これが、何にもまさる助けになっている。いつも。
人生は泣き笑い。落語はそんなことをその軽妙な語り口の中に乗せて、伝えているのだとか。聞いてみたい。このごろときどきふとそう思うようになった。ひとにやさしくしたいとおもうのは、自然なこと。別に見返りを求めるわけじゃない。ばちがあたりたくないからなんて、奇麗事とも違う。嫌なことは嫌である。そんなこともたくさんある。ささいなことに腹がたって、どうにも収まりがつかないこともいくつもある。それでも、だれかに、あるいはなにかにやさしい気持ちになれるときというのは、ただそれだけで気持ちがいい。損だとか得だとか、そんなことはどうでもいい。ひとはただ、食べて寝るだけでは生きることに価値を見出せないというのと、同じことかもしれない。ひとを好きになって、そのひとのことを考えるだけでも、嬉しい気持ちになれるのと同じように。自分は~~だから、~~しなきゃというのじゃなくて、~したいからでいい。できることをできるときにする。そのときはその意味なんてわからなくてもいい。無理はしない。したくないときはしないでいい。そ
んな風に楽をすることにも、罪悪感なんか感じなくてもいいんじゃないか。どんなことでも、後になったら何がしかの意味を感じられるものだし。っと、自分にいいきかせているのかな。てへ。好きなひとを想うときに自然に沸き起こってくるやさしい気持ち。これが、何にもまさる助けになっている。いつも。