いつか、小説というものを書けたらなと、時々おもうことがある。でも、同時に、一度始めたら後戻りできない世界に引き込まれてしまいそうで、生半可な覚悟ではいけない。柄にもなく、そんな怖さのようなものを漠と感じる。できるならなるべく目立つことは避けたい。ひっそり暮らしたい。文字通りそんな暮らしでいまいるのに、どうして執拗にそんな風に思うのか、自分でもわからない。これでも、20代のころまでは、いつか見てろよ、まことに恥ずかしい心意気でいたものだ。どこでどう救われたのか、なにがどうなったのか、自分でもわからないが、ひとの評価や注目を浴びるということは、同時に醜い嫉妬の嵐にも遭うということで、だからどうしたと一方では思わぬでもないが、でも侮れぬ。なるべくなら、どちらもなしに越したことはないのではないか。しあわせや満足はもっと別のところにある。そんな風に考える。なんとか、目立たず、でもひっそりと書いていけたらいい。そんなことを思っている。
紫式部さんをして、あそこまでの大作を書き続けるエネルギーを起こさせたものは、いったい何だろう。ついに叶わなかった想いへの悔しさか。いや、マイナスのエネルギーで無理ではないか。ついに、手にしたしあわせ(愛)を懐に、日々の充足をかみしめながら、なお余りある機微の移ろいを、周囲への冷静な観察眼や、前世や来世をおもう豊かな想像力で補ったものが原動力になったのではないか。おんなとしては、できればそちらであってほしいと願う。想像力は、ときに有り難く勇気あふれる救世主にもなってくれるが、一方で、直接話しをすれば、いとも簡単に解決氷解のできる不安や、心配を勝手に増大させてしまうこともある。ずっと気になっているのは。そんな杞憂が、見解の相違があるのでは、ということ。おんなが、いつも割とのほほ~んとしていられるのは、“大丈夫”という確信にも似た直感のようなものが、ひとりでに生まれてくるから。なのかもしれない。というのも、ただの杞憂であればいいのだが…。(追:知人や恩師の方々への元気報告を兼ねて始めたものだ
が、ご覧の通り、勝手ながら大切なキャッチボールとなっている。かつて、軽率にも名刺代わりに多数に知らせた代償に、あらゆる付随機能をつけないこととなっている。ですので、登録その他いっさいの返信を固辞しております。善意の方々には誠に申し訳ない限りですが、ご了解とご理解のほどをここにお願い申し上げる次第であります。)
紫式部さんをして、あそこまでの大作を書き続けるエネルギーを起こさせたものは、いったい何だろう。ついに叶わなかった想いへの悔しさか。いや、マイナスのエネルギーで無理ではないか。ついに、手にしたしあわせ(愛)を懐に、日々の充足をかみしめながら、なお余りある機微の移ろいを、周囲への冷静な観察眼や、前世や来世をおもう豊かな想像力で補ったものが原動力になったのではないか。おんなとしては、できればそちらであってほしいと願う。想像力は、ときに有り難く勇気あふれる救世主にもなってくれるが、一方で、直接話しをすれば、いとも簡単に解決氷解のできる不安や、心配を勝手に増大させてしまうこともある。ずっと気になっているのは。そんな杞憂が、見解の相違があるのでは、ということ。おんなが、いつも割とのほほ~んとしていられるのは、“大丈夫”という確信にも似た直感のようなものが、ひとりでに生まれてくるから。なのかもしれない。というのも、ただの杞憂であればいいのだが…。(追:知人や恩師の方々への元気報告を兼ねて始めたものだ
が、ご覧の通り、勝手ながら大切なキャッチボールとなっている。かつて、軽率にも名刺代わりに多数に知らせた代償に、あらゆる付随機能をつけないこととなっている。ですので、登録その他いっさいの返信を固辞しております。善意の方々には誠に申し訳ない限りですが、ご了解とご理解のほどをここにお願い申し上げる次第であります。)