秋の午後は、それも天気に恵まれた午後は、なぜにかくもいとおしくせつないのか。いつもながら、なんともいえない気持ちになる。大好きな季節に違いないのに、同時にいたたまれない感じにも包まれる。これだけは、いつになっても慣れそうにない。たぶん、日暮れの足音がよりそうさせるのだろう。惜日ということばは、辞書にはないが、許されるならそんなことばを作りたい。▼どんなに遅くに寝ても、目覚ましをセットしなくても、8時台には目覚めるようになって、ほ~やっと大人になれたかな、と思っていたのもどこへやら、春眠だけではないらしい。たぶん、秋眠も負けず劣らず深くけだるい。だから、余計に惜日となるのだけれど…。▼いつか、あるひとが言っていた「少し不満がでるほどに忙しいときのほうが、かえっていい仕事ができるもの」。胸に染みる。時間に追われるというのも少しはないと、メリハリが欠けて、気持ちの張りを保つのが難しい。ひとは、つくづくわがままで無器用ないきものだなぁ~、とひとりごと。無論、仕事はいくらもあるし、どれも嫌いなこ
とはないのだけれど…。

▼ターシャおばあさんは、もしお金を稼がなくてもよかったなら、絵(本)は描かずに、庭仕事や針仕事だけでも十分たのしいかったはずだわ、と言っていたけど。やっぱりだれかとどこかでつながっている、というしあわせは、ことばを超えたなにかがあるような、そんな気がするのだが…。▼朝、目覚めて時間を確認される以外、ほとんど枕元に置かれたままのけーたいでんわ。仲間に、「いい加減にメール機能をつけてくれ」と催促されたときと、トイレに落としたときしか、変えたことがない。それも、ほとんど無料同然の旧型の。それでも、ずっと白に憧れていた。が、しかし。先ごろ店頭で値段見て、びっくり。高すぎる。これじゃあ、トイレにでも落とさぬ限りは、とても買えませぬ…。▼抽斗とという抽斗を整理するのは、こつこつするのは好きなのだが、なかなかに骨が折れる。勝手に処分もできないし。でも、なしてこれほどつめこむのか。おなか同様7~8分目でないと、機能的にしまえないでないの。いざというとき使えないし。決して几帳面でも綺麗好きともいえない身
ながら、見えないところだけは、整頓しておきたい性分で。なにしろ、大正時代の通知表や、戦前の、朗らかで全く別人のような父が姪に送った手紙が、突然現れたりするものだから、いっこうに進まず、ちょっぴり哀愁のきょうこのごろ…。