その昔、先人たちはこの険しい道なき道を辿って、峠を越え、行商にきていたのだろう。背中には、薬や干物の入った重たい木箱を背負って。その苦難続きの道程を思うと、頭が下がる。くにざかいの山々は、決して高くはないが、小さな尾根が幾重にも折り重なり、平坦なところがほとんどない。舗装されたいまでも、地図上ではほんの隣なのに、優に八里はあるだろうか。古くから銅器の産出でも有名なその町は、万葉のふるさとでもある。豊かな緑に囲まれた美術館を訪ねると、銅でできた万華鏡が迎えてくれた。不思議と安堵を混ぜあわせたようなユーモラスな曲線が、ほのぼのとした風合いを醸していた。素直に、おもしろいと思った。

さて。お目あての作品たちはいずこに?画だけじゃなかった。陶器に彫刻、鉛筆画からタペストリーまで。多くの美術館や博物館で感じる、違和感がないのがうれしい。作者も時代も背景もまったく異なる作品たちが、いつも居心地の悪さを抱え、泣いているように思えてこころ苦しさを味わう。それもなく、作品たちは、仮住まいの空間にも、ホッと和んで佇んでいるようで。見ている方にも、穏やかさが伝わってくるような。そして、そんな作品たちは、見ている者に確かに何かを送ってくれた。こんなことは初めてで、自分でも驚いたけど、帰宅してから気がついたのだけれど。元気をもらった。そんないい古されたことばでは、うまく伝わるか心配なほど、“気”の充実した作品たちに、改めて感銘、感服したのだった。90を過ぎても何かを生み出すエネルギー。“天才”とは、スタミナという才能も含まれているのだろう。偉人の作に触れるとこと。出合いのありがたさ、たいせつさにただただ感謝。時代を越えて、時をこえて伝えられるもの、残していけるもの、をしみじみ感じた。
行ってよかった。ほんとにこころからそう思う。

うっかりおとぼけ者のかあさんは、生まれたたまごがうれしくて、余韻にのんびりひたりながら張り切って温めているうちに、孵化する時間も忘れ、既に孵った雛たちをつぶしてしまいそうになるあわてんぼうでおばかさん。いつも、迷惑をかけてばかりいる。反省。…。頑張って。ラストスパート。