「ふ~~」。白状すると、今月に入って、もっともたくさん日記に登場している。次に多いのは、「う~~ん」かな。ともあれ、でも、静かに文字を書くというのは、思った以上にこころを落ち着かせる、そんな効果があるらしい。そういえば、次の12月で日記生活も30周年。早いものだ。ところで。これも決して悪口ではないけれど。母親は、失敗を許せないひとで、結果がすべて。だから、結果や肩書きのあるのが偉く、それ以外はただのひと。権威に強い憧れと畏れをもつ。まあ、世の中にそんなひとはごまんといるのだろう。むしろ、たすうはなのかもしれない。でも、おへそ曲がりの娘に言わせると、「それじゃあ、ちっとも人生たのしめない」。すべてが○か×なんて、20代ぐらいまでなら、それでもいいけど、それじゃあ奥行きのある渋さや魅力は生まれないのではないか。遊びのないブレーキなんて、危なくて楽しむどころじゃないじゃない。

悪いことや嫌なことがあると、すぐ「あれがいけなかった」「これが悪かった」と、そんなことばかりに終始していては、ちっとも現実と向き合えない。背を向けて、逃げれば逃げるほど嫌なことはやってくる。きちんと向き合って受け入れれば、嫌なことの中からも、いいことが見えてくる。厳しい娘は、「いまのすべては、誰のせいでも、何のせいでもないの。じぶんに起こるぜんぶは、これまでのじぶんのしてきたことのいんがなの。いいことも悪いことも。」

吉本氏が、そのひととなりは、「9歳ごろまでの学童期と、14、5歳の思春期の環境で決まる」と、おっしゃっていたけれど。5歳で父親を亡くし、一度は養子にさえ出された母親には、ずっと誰かに褒められたい、認められたい、妹たちに負けたくない、そんな潜在意識を癒すことが出来ないままいたのだろう。あなたはあなたでいるだけでいい、そんな風に思えることがなかったのだろう。今でこそ、冷静に向き合えるが、何かに挑戦しようとするたびに「無理に決まってる」「前の方がよかったのに」「そんな勉強で受かるはずがない」なんて、囁かれ続けられたときは、正直、憎いとさえ思った。「このひとは、ひとを愛することが出来ないのか」と思うと悲しくて仕方なかった。このひとの“舌害”さえなかったら、父も娘もどんなにこころ穏やかに暮らせただろうに、って。

でも、すべては必然。いいところも、悪いところもみんな受け入れるしかないのだ。ただ、親と子は互いの時間を独占できない。遅かれ早かれ、別々の人生を互いに尊重しなければいけない。もちろん、助けが要るときは、いつでも支えるけれど。ずっと一緒には、いられない。やっと最近そのことが、少しわかってくれてきたようなのは、彼女にとって、大きな進歩なのだろう。評価したい。

かくいう娘も、わかったような生意気を言っているけど、20代までは、就職や奨学金の面接で、しおらしく「世の中の、役に立ちたい」なんて、口にしていたけど、内心、そんなことは思えなかった。ただひたすら、思い通りになればいい、じぶんが納得できることをしていたい、少しでも格好よくありたい、そんな風に自分のことが何においてもいちばん、だった。誰かのため、とか、世のためなんて綺麗事に過ぎないと思えてた。でも、不思議と、いつか時間ができたら、自分とか、自分の家族のためだけじゃない、何かができたらいいなぁ~、ときどきそんな風に思うようになった。さらに、次の30周年まで、この日記生活が、無事に続けられたらどんなにしあわせだろう。いちばんのこころの願いだ。