とはいえ、ささやかなぜいたくは、やっぱりないとさびしく、きもちの張りだって随分違う。一目惚れしたそのくるまを、初めての新車を、おまけに国産ではなく、塗装だってデリケートなその色のを、奮発しようかどうしようか、躊躇っていたそのとき、偶然あるひとが放った、「たとえ仕事でも、毎日たくさん乗るからこそ、いいものを選ぶことに意味があるのではないかな?」(実は、お店のひとだけど…^^;)のひとことが、大きかった。以来10年、15万キロを超え、一度は心臓部も修理したけど、なお、愛着は衰えるどころか、老いの隠せなくなった愛犬並みのといったら、いい過ぎだけど、ともあれ、それくらい選んでほんとうによかったと今も、確信している。当初は、確かに、少し背伸びしすぎだろうかとか、身の丈にあってないのじゃないだろうかとか、少しの危惧もあったけど、だからこそ、努力の源にも、日々の元気の元にも一役買ってくれたとさえ、思っている。そのひとの、持ち物がそのひとをつくると、どこかで聞いたけれど、確かに、日々ふれているもの、感じていることが、いつしかそのひとの空気となって、醸し出てくるような気がする。そんな意味では、まだまだ全然努力は足りていないけど、でも、少しずつではあるけど、いいものがわかる感性への関心はお陰で、以前とは比べ物にならないほど、深まっている。そんな気がする。感謝。


ところで。中3の夏休みほど、いわゆる“勉強”した日々はなかった。もっとも、ここでのそれは、あくまで机の前で目と頭とエンピツを動かしているという意味の、それだけど。朝は5時半から6時に起きて勉強、朝食と小休憩を挟んで昼まで勉強、小一時間の昼寝とおやつをして、また夕方まで勉強。夜は夜で、11時か11時半まで。無論、自由研究する日や、読書の日もあったと思うが、ほぼ毎日恐らく10時間以上はしていたのではあるまいか。我ながら、感心。でも、当時は、不思議なくらい、面白いほどにやったらやっただけ、頭になんでもスイスイ入ってきた。あとで、ひとの脳細胞の衰退の話を聞いて、合点がいったけど。とくに、新しいことわざとか、故事成語なんかを調べるのがたのしくてしかたなかった。その反動か、ただ受験のため、要領よく切り捨てるところは切り捨てて、という高校での勉強スタイルにどうしても馴染めず、実に苦しい3年間が待っていたのだが。ともあれ。中学時代のそれがあったからこそ、勉強がほとんど手につかなくなったときでも、なんとか平均点だけは確保できたのではないか、とさえ思っている。そんな意味でも、ほんとうに有意義な夏休みだった。あんな具合にはいかなくても、あとで「あ~あの時間はほんとに充実していたなぁ~」、そんな風に思える、夏の時間が送れたら、そんな風に思っている。


もひとつところで。ほんとにところでだけど。本を辞書でひくと、①書物、書籍②映画・演劇の脚本③野球で、本塁の略、とある。もちろん、①のこと。たぶん、これは、羅針盤、香辛料、活版印刷の発明にも、負けるとも劣らないのではないだろうか。おなじことが、おなじ文章が印刷されているだけといっても、文庫で読むそれと、ハードカバーで読むそれとでは、どこかしら、心構えも違うし、感じる味わいだって違う気がする。ほんとうに、こころ打たれたら、最初は図書館で借りても、是非一冊買いたいとさえ思う。父と違って、「部屋の床がぬけるんじゃない?」と、粋を理解しない母とは、なかなかことばが通じないのだが、わかるひとにはわかってもらえると思う。パソコンの画面だって、文字を載せられるという意味では、おなじものが読めるかもしれない。でも、それは、「あ」ならあ、「い」ならいの文字が映っているにすぎない。作品でもなんでもない。たとえ、大著といわれる長編を網羅できたとしても、だ。CDやDVDの音楽と、生の演奏とが少しも違わない、というひとはいないだろう。それとおなじで、本はひとつの世界であり、書き手のこころの集約でもあり、書くという作業の結晶でもあり、だから、どんなにパソコンが発達しようとも、本という形体とおなじ次元のものにはなりえない。手に触れるということ、手に触れてページを捲って、書いた人の息遣いを感じるということ、それらは、現実の“紙”でないとだめである。だから、そのことの大切さが、もっともっと叫ばれていいのではないかと、少し僭越だけど、そんな風に思う。


たとえば、司馬遼太郎さんの「人間というもの」、夏目漱石さんの「人生というもの」、ユニークなところでは、坂口安吾さんの「なぜ生きるんだ。」などがある。あるいは、いつか紹介した吉行さんや城山さんのもそうだけど。こんな贅沢な読み方をさせてもらって、いいのだろうか、とさえ少し胸がいたい気もするが。でも、とてもありがたい。司馬さんのでは、「以下、無用のことながら」というのもあった。この夏ゆっくり読み直してみようかと思っている。さて。ちなみに、表題は、目覚めたときの物憂いけだるさ。夢の現の間をたゆたっている感覚で、単に眠りから覚めるというのとはちょいとニュアンスが違うのだとか。昼寝がとてもありがたい、この時節だからこそ味わえる感覚なのだそうで。もっとも、健康にいいのは、2時間以内!のひるね、なのですけどね…--;。ともあれ、奥の深い、さまざまなことばを、とりわけ季節感と密着した繊細なことばを知るのは、ほんとにうれしいことですねぇ。