穏やかな日「やわらかな日差しが 道に/ひろがっている 疎らな木の影が/静けさの中に落ちている 時間が/遠くから 澄んでくる 空が/おおきな視線のように感じられる/何もかもが はっきりと/すぐ近くに見えてくるような/ありありとした感覚に/つよくとらえられて/立ちどまる/それから 気づく/何かに 語りかけられている/目の前の風景を 深くしている/声 耳を被ってしか 聴こえない/ことば 目を覆ってしか/見えないもの いたるところにいて/どこにもない 誰か/いままで 気づかれなかった/そこにずっと 存在していたもの/それは 外側から聴こえてくるようで/ほんとうは 内側から聴こえてくる/いま、ここに在ることが/痛切に しきりに 思われる/穏やかな日」
たとえば、おりからの風が止まって、なかなか眠りにつくことのできない夜半に、ふと手を伸ばして触れた枕元の詩集。なにげなく、ひらいたページから目に飛び込んできたことばの海が、そんなだったとする。そう、わたしが、このありがたくたおやかに流れていく時間に感じていたのは、そう、こんな感じのことなの。それにしても、どうして、普段誰もがつかう、わかりやすいことばを編むだけで、こんなに素敵な台詞になるのかしら。それこそ、見えない感性、情緒の織り成す魔法なのでは…。なんて、出会いの感動に、しみじみ浸っているだけでうれしくって、しばし、暑さを忘れる時間が訪れる。
あるいは。自由に必要なものは「不幸とは何も学ばないことだと思う/ひとは黙ることを学ばねばならない/沈黙を、いや、沈黙という/もう一つのことばを学ばねばならない/楡の木に、欅の木に学ばねばならない/枝々を揺らす風に学ばねばならない/日の光りに、影のつくり方を/川のきれいな水に、泥のつくり方を/ことばがけっして語らない/この世の意味を学ばねばならない/~(中略)~/石の上のトカゲに、用心深さを/モンシロチョウに、時の静けさを/馬の、眼差しの深さに学ばねばならない/哀しみの、受け止め方を学ばねばならない/新しい真実なんてものはない/自由に必要なものは、ただ誠実だけだ」 とか。(いずれも、長田弘氏『一日の終わりの詩集』から)
たんに、知識や情報を盛り込んだ手段としての言語(だけ)ではなく、ことばには、こんなにも、深い深い懐というか、情緒や感性、つまりは文化、いやひとがどうしてひとであるのかというような、そんなこころにつながる、こころをささえる、ちからと智恵が、いっぱいつまっているんだ、ということを、本来は、国語という授業の中で伝えることが本旨なのではなかろうか。科学や知識集積一辺倒の、偏差値がどうしたのとばかりいうような、そんな教育をしてきたことのつけが、あまりにいろいろなところに、そしてあまりにひどいかたちでですぎてはいないだろうか。賢いというのは、成績の点数がいい人ではなくて、もっと深い智恵と、教養を身につけて品格のある言動をできるひとのことをいうのではないのか。どんなにいいスコアを出すことができても、いちいち「あ~、あ~すればよかった」だの、「あれは、風のせいだ」なんて、愚にもつかない言葉しか発することのできぬひとは、決して上手いとはいえない!、のと同様に,。あるいは、ひとの懐具合や、ゴルフのスコアだけでしか、ひとをみることができないひとが少なくないのも実にかなしいし。それらは、どこかで、何かが、おかしくなっていることの証左かもしれぬ。ほんとうに偉い、ということのお手本となれるひとが、あるいは事例が、余りに少なくなってしまっているのだろうか。未来を担う、こどもたちのことを考えると、不安が募るこの時世をちと憂いたくなる。(おっと、いけない。あまりに素敵な詩を教えられた嬉しさ余って、つい少しばかり熱くなってしまいました。)