あるところで、ある女性が、通勤の服装を咎められて騒ぎを起こした。いくら、昼間は制服とはいえ、下着が透けて見えるような格好でお客の目に触れるところを通るのは如何なものか、と。無論、個人の自由、品格の問題であろう。言われてわかるくらいなら、言われなくともわかるし、言われないとわからんのに、言ってもわかることはない。という名言!?もあるくらいだし。件の女性は、まるで髪形を注意された女子高生並に、自分が否定されたかのような幼稚さを発揮。ひとは、年齢と大人は関係ないのだなぁ~と、つくづく勉強になる。いつか、塩野七生さんが、「女性は100メートル向こうから歩いてくるのをみるだけでも、そのひとがしあわせかどうかがわかる」という意味の、名言をされておられたが、思わずそれが脳裏に浮かんだ。なるほど、言いえて妙である。これは、「5秒でわかる」らしい、おんなゆえの感覚もしれないけれど、度を越して華美な服装をしている女性を見ると、「あ~、このひとは、満たされないおもいを髄分と抱えているのだなぁ~」。少なくとも、おんなにはそう見える。適度なおしゃれは、周りを、そして自分の心を華やがせ、むしろしゃきっと背筋を伸ばしてくれる効果もあるけれど、なにごとも、過ぎたるは~、なのでしょうねぇ。なんでも、そんな派手志向の、目的の大半は、異性にではなく、同性に張り合いたいという、潜在意識の現われでもあるのだとか。どこかで読んだ。ふ~ん。そんな感覚もあるものですかねぇ~。南無阿弥陀仏~。
もし、かみさまが、いちにちだけ可愛い顔を授けてくださるというなら、そうだなぁ~、メグ・ライアンみたいな、チャーミングな顔になってみたいなぁ~って、半分冗談では思うけど。。。とにかく、女性の妬み嫉みほど、醜いものはなく、実力のないひとほど、ひとの足を引っ張りたがるものであり、いずれにしろ、そんなひとを相手に何かで勝つことをしても、ちっとも意味がないし、そんな百害あって~の、濁った意識しか持てないひとのそばにいるだけでも、悪い空気に汚染されそうでもあるし。とにかく、意味のない争いごとには関わらない、尻尾をまい(たふりし)て逃げるのがいちばん、これまでの少ない経験からも、つくづくそう思うので、とにかく、つまらぬ競い合いからは、離れていたい。でも、少ないですねぇ~、噂話、自慢話、不満話、以外の実のある話のできる女性って。愛なのでしょうか。それとも育ち?それとも天性?。男女同権が、蓋をしてきたもの(教育?)の、つけがまわってきているのでしょうか。これまで、なんにんもの教育熱心なお母さんをみてきたけど、決まって、自分は本をちっとも読まないし、それでいて子供にばかり勉強を強いていて、ご本人はちっともしあわせそうには見えない(要は、自分は努力しないで、べつのなにかを使って、見栄を張りたいだけ?あらゆる不幸の根源なのにねぇ)。そもそも、勉強しないと受からないところにいったって本人がつらいだけ、あとでつけがまわってくるだけ。できる子供は、しなくたってできる。ほおっておいても、親の背中を見て本を読むようになる。ほんとうの、教育ってそういうものでしょうにねぇ~。(なにも、勉強だけが尊厳の証じゃあないのに。)
まるで、風の大地のような舞台をみていて思った。自然とたたかうということ。風をねじふせようとしてはいけない。ときには、かぜと戯れ、遊んでみるくらいの勇気と余裕がないといけないんだって。結果を恐れて、守りにはいってばかりいると、かえって風のかみさまの容赦ない仕打ちをうける。確かに、結果は数字だし、実力はそれで、ひとつのはかられかたをするのも事実だけれど。でも、いっけん同じにみえる、数字でもそれは、お金の多寡ではない。誇りと我慢と勇気の勲章みたいなものじゃないかって。だから、ものすごく、価値のあるダボもあれば、ちっとも価値のないパーやバーディさえあるだろう。要は、ひとつひとつの動作に込められたおもい、何をイメージし、何をあきらめ、何を求め、どんな工夫をし、どんな忍耐をし、どんな努力をして、描いたものに近づけようと試みたのか。そんなひとつひとつの、積み重ねではないのか。たとえ、失敗に終わろうとも、あきらめずにやったことに、無駄なひとつなんて、決してないのではないか。って。だから、結果だけを見て、簡単に批評したりするひとのことなど歯牙にかけなくともいいのではないか。って。自分をしっかりもてないひとほど、ひとの甲乙をあれこれいいたがるものであるし。にんげんの、偉さは簡単な数表なんかではかれるものじゃないし。ふと、そんな風におもった。(ところで。グリーンは、まるで生き物。自然界の象徴。長いラインには、決して有理数の解が得られない方程式みたいなものがある。神がかり的な何かが加わらないと、100回打っても入らない場所は確かにあるし。強さと方向。それに、もうひとつの何かがある。まるで、深い深い宇宙みたいだ。)