木陰でたたずむひととき。たそがれどき、水面を越えてやってくる涼しくやさしい風が、いちだんと身に染みる季節。になった。ひさしぶりに、足を伸ばして、おおきな池のある公園を通ってみた。いつか、思わず満開のさくらを写真に収めた湖畔でもある。すぐ横では、蓮たちがいまをさかりと、いっせいに背比べをしているようだった。相変わらず、ときおり、胸がちくちく痛むのだが、まぁこれも生きてるあかしかしらん、ってね。癒えない傷はないからね。そのうち、きっと。。。


さて。茗荷。どうしてこんなに好きなのだろう。それの載った冷たいおそばを食べさせてくれたあのお店はいったいどこにいってしまったのだろう。歳をとるごとに、好きになっているようだ。いつか、極上の天ぷらやさんのカウンターの奥に、それを見つけたとき、思わず頬がゆるんだっけ。ところが。生憎、そのコースには入っていなかったみたいで、ついぞそこでは食せず、ちょびっと心残り。だった。古都のひとつにある小さな市場には、その茎を酢漬けにしたものがあるのだが、賞味期限があまりに短くて。。。好きな食べ物は?と聞かれるたびに、言葉につまるわたしだけど(美味しいものはなんでも好きであるし。でも、これだけは、例えば『大福!』とかって言えるひとがちょっと羨ましい。)、この季節なら、詰まらないかもしれない。


あるとき、ふと点けた教育テレビの中の、旅人が語りはじめた。「どこを旅しようと、自分自身から逃れることはできない。でも、そこでは、思いもよらぬ新しい視点と出合うことがある。だから、旅は自己の忘却ではなく、新たな探究心と向き合うことである」と。前後の脈略もわからずに、そのひとが誰であるかもわからずに、突然に飛び込んできた言葉だったが、とてもいい響きがこころに残った。そうなのだ。旅というのは。少しでも安く、少しでも楽に、少しでも便利に、ただそこに行くためというより、あとでどこそこに行ったのだと(自慢話を)いうためだけではないの?と、見えなくもない、そんなのは、旅でもなんでもないのでは。だから、世界中どこに行こうと、どこを旅しようと、すべてのひとが、ほんとうに旅したといえるわけではない。のかもしれない。恐らく、本を読むというのにも、通じることかもしれない。ふと思った。(それに、旅は自分の懐を使ってしないと身につかない。これもきっと、真実。。。)


ところで。おんなにとって、いくつになっても、ちゃんとだれかを愛せているということ、これは思いの外、とてもとてもおおきくいみのあることではないだろうか。だれかの噂話、自分の家族の自慢話、そして自分の不満話、それらを除いて、ちゃんと話せることのある女性をみていると、つくづくそう思う。嗚呼、このひとはちゃんと愛することのできるひとなのだなぁ~って。福田恆存氏の『人間・この劇的なるもの』はこう始まっている。「愛は自然にまかせて内側から生まれてくるものではない。ただそれだけではない。愛もまた創造である。意識してつくられるものである。女はそう思う。自分はいつもそうしてきた。だが、男にはそれがわからない。かれは自然にまかせ、自然のうちに埋没している。~」。あるいは、また別の作品では「女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者がめったにないけぇのう。~」(『忘れられた日本人』)なのだそうで。。。あまり、むずかしいことはわからない。ともあれ、そのひとがいるだけでしあわせ、そのひとをおもうだけで、愛しくて涙がこぼれそうになる。そんな感覚をもてることのほかに、もっとしあわせといえることが、あるのだろうか。おんなはただただそんな風に思っている。