生きていると、たまには腹の立つこともあるものである。例えば、こんな話。先生が生徒に、「間違いない、君ならきっと90点以上。もしかすると、100点もあるかもしれない」という。でも、結果は、80点。採点に、予想外の“漏れ”があったという。「かくなる上は、是非吾が校の補習を受けませんか?受ければ必ず95点です。」と言ったとする。ちょっと、カチンとくる。なぜかといえば、確かに、時と場合によっては、前向きな勇気付けも大切でしょう。しかし、結果がでるまで、軽々しく数字を口にすべきではない。しかも、その予定外の現実を伝える際に、開口一番、「よかったですよ~」から始まった。生徒としたら、「なんじゃそれ?」である。しかるべくは、「これこれこうこうで、こういう悪いケースもあり得ます。その場合は、こんな対処もありますよ」と、事前に伝えられ、結果も、厳正に、「じつはこれこれこうでした」と言えば、その方が、ずっとずっと信頼感が増すというものである。そんな言い方では、単に補習費用を稼ぎたいだけではないですか?と、あらぬ邪推さえ起ころうもの。ひとを動かすのはひとのこころだ。仮に悪意がなかったにせよ、言い方ひとつで、月にもすっぽんにもなるのではないのかしらん。「だったら、あんなにぐずぐずしないでもっと早くに処置をすればよかったのでは…」なんて、言っても仕方のないことまで文句がでるではないか。


とはいえ、「短気は損気」である。わかっている。別に、それで現実に変わりはない。もちろん、意思にも。(80点もあれば充分だし)。でも、改めて、コミュニケーションの大切さを思い知った。あれは、いつだったろう。まだ学生の頃かな。これまで見た中ではいちばん才能があると思う、あの名キャスターがまだ午後10時の顔だったころ。そのとき、氏の口から初めて聞いた。「インフォームドコンセント」。きちんと、説明することの大切さについて…。それから、後藤田氏のことを回顧した(佐々氏の)文章の中で、氏は「よい報告は少々遅れたって構いやしない。悪いものだけは、いついかなる場合でも決して遅れてはいかん。」という意味のことが記されていて、非常に、心に残った。イエスマンではなく、きちんとしかるべき苦言進言を率先できる環境こそが、とても大事なのだ、と。それらをみても、勉強になることはいくらもある。そんな気がする。ところで。昔の人の知恵や精神を、五七五七七で語った“道歌”というのがあって。。たとえば。「浅き瀬は波音高く聞こゆれど 深き浦には音はなきなり」。(嗚呼、もっと深くならねばいけない。)あるいは、また。「一生は旅の山路と思うべし 平地は少し峠たくさん」とか、「誰も皆持つものながら誠より 重きものこそ世になしと知れ」とか、はたまた、「丸くとも一角あれや人心 あまり丸きは転びやすきに」ともいうそうで…。ともあれ、ひとのすることに100%などないわけで、すべて、結果からみれば100か0でもあるわけで、確率に慄いても所詮仕方のないことで、故意偶然を問わず、ひとが図って起こ(せ)ることは、人智の及ばぬ力(災厄)に比せば、まだまだ小さきことで…。ひとは、もっと大きななにかに生かされている。ちょっと、生意気だけど、そんな風に思う。


とまあ、ちょっぴりご機嫌斜めのおばさんになってしまった。でも、こうして消化の手助けをしてもらっているのですけどね。一晩寝れば、元のアッケラカンに戻るでせう。「忘れる」というのは、実に有難い天の恵みである。なあんて。そうそう、国宝の三門があるお寺の立派な楼のひとつ「玅雲閣」の二階には、35歳の宝冠釈迦如来坐像があるのだとか。ほとけさまに、年齢があるなんて、ちょっと可笑しく、思わず口元が緩んでしまうが、面白い。親しみが湧いた。ちなみに、「玅」の字は、もともと「妙」と同じ音意で、妙が「美しい真理」なのにたいし、それは「奥深い道理」を意味するそう。たとえば、古いお寺を巡る旅、古民家の里を訪ねる旅、あるいは陶芸の里を~。それぞれつくったひとの手のぬくもりが感じられる紀行…。いつの日か、してみたい。