花火より炭になりたやこのおもひおもてしずかもとわにあつきを――。願いをこめて短冊にしたためてみようかな。なんて、ちょっと照れくさいけど。それにしても、千年の時を経て、まったく色あせない恋物語。ひとりの男性主人公をめぐる物語のように書かれているけれど、実は、書き手の内面に秘められた幾つものおんなの顔を、それぞれの登場人物の性格として描かれたものなのだと、どこかで読んだとき、とてもふかく納得させられた。なるほど~、だから、とわの時を超えてなお、ひとびとのこころを揺さぶる力をもっているのか、と。しかし、やっぱり、人間をふかく観察する眼と、ストーリー豊かに展開する表現力には脱帽するばかり。ちなみに、吉行氏は、なぜ小説を書き始めたかについて、「簡単にいえば、世の中に受け容れられない自分の感受性や感覚に場所を与えたいという気持ちがはじまりである」と。これを読んだとき、こころに軽い衝撃がはしった。ひょっとして、紫の女史も、そんなせつない想いをかかえながら、書いていたのだろうか。
「結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに深く生きたか。いかにさわやかに、いかに優しく生きたか。よい思い出のためには、よいつきあいも要るが、よいつきあいとは何なのか……。学生時代に戻ったように、問いかけは果てしない。」「尊敬するに足るひとを、一人でも二人でも多く持てるということ――それは、人生における何よりもの生きる力になることであろう。」「『弓をいっぱいに引きしぼったら、あとは放つばかりだ。カップに酒をいっぱいについだら、それはこぼれる時なんだ。金や宝石をやたら貯めこむと、税金か、詐欺か、馬鹿息子で消えてなくなる。そんな富や名誉をもっていばったって、その瞬間には、落ちこむせとぎわに立っているのさ。自分のやるべきことが終わったら、さっさとリタイヤするのがいいんだ。それがタオの自然の道なのさ――』」(いずれも城山氏の作品から)。
思うに、リタイヤといったって、別にピリオドを打つわけじゃない。あくまで、次のステージへの橋渡し、あるいは架け橋に過ぎない。年齢とは関係ない。そんな風に思いたい。かくいうわたしも、最初に就いた職を手放したことがほんとうによかったのかどうか――。背伸びも無理もなく、否定も肯定もしないでいられるようになったのは、ごくほんの最近のこと。。。なんですけどね^^;。