音とか、香りとか、あるいは灯かりというものは、ともすると舞台装置の一部というか、風景、背景のひとつと見ることもできなくもないが、そんな、言ってみれば、目に見えないものの恩恵、効果をつくづく感じ、そして感謝できるようになってきた。(それだけ、疲れをしる大人になったということかしらん?)。香りを買い求める。例えば、ハンドソープ。たとえば、アロマキャンドルでのバスタイム…。総大理石、総ヒノキのバスタブなんてのは、一朝一夕では手に入らぬが、ささやかな工夫ひとつで、随分と贅沢な空間、時間をもつことができる。小さなもの、ささいなものこそ、ちょっといいものを使う。たかが、というなかれ。トイレの紙ひとつ。塵も積もれば…、である。居心地がいい、気持がいいと感じる時間の蓄積は、一生分だと、恐らく随分違うだろう。まわりの自然を見つめるまなざし、繊細な空の色の変化、虫の声、蛍の灯かりに包まれた宵の空間……。見える景色、感じる心があるって、ほんとにとてもたいせつなこと。そんな風に思う。
こころをつかんで離さないひとつの光景がある。でくわした、というのでもない。であったともいいたくない。気持ちを揺らす、日常のひとコマ、だろうか。なんのことはない、偶然がもたらした“相棒”の家出。恐らく、最初はつかの間の脱走のつもりだったのだろう。追いかけてきてくれると、信じて疑わなかった、はず…。でも、違った。主人の方にもそれなりの事情があったのは確かなのだが、それでも、その瞬間、恐らく、残酷な一節が浮かんでしまった。それを、彼は敏感に察した。と読むのは、深読みしすぎだろうか。ともあれ、雨足は強まるいっぽう…。目も耳も、足も往年のそれ、とは言い難い。ずぶ濡れで、すっかり重たくなったからだと足をひきずるように、トボトボと…。見つけたときの安堵を、そのさびしい背中がいっぺんにかき消すほどの、哀しみに覆われていた。そのシーンが浮かんでくる。5メートル後ろから名前を呼ぶ。一瞬、幻聴でも聴いたように立ち止まる。でも、まさかね、という風に歩きかけ、3メートルでやっと現実の声と分かり、振り向いて…。まるで夢をみているかのように、かたまった彼の表情がまた、やるせない。「ん?帰ったらあかんておもたん?」。こちらの胸に顔を押し付けたまま、タオルで拭かれるままになっている姿がまた、せつなくて…。なあんて、彼にしてみれば、主人に叱られるのが嫌で遠出してみたものの、荒天になる一方で、歩いて帰るのしんどいな、ぐらいのところへの相棒のお迎え、だったのかしらん。いやいや、ひとのこころを読む彼らの洞察力は、きっと、もっとずっと深くて、重たいもの。そんな気がして、柄にもなく、センチメンタルに耽っている。
としをとると、ひとは子供にかえると、いうけれど。たしかに、自分を守ろうとする意志が強くなるという意味ではあたっている。そして、じつは、こころのひだひだは、やはり純粋に繊細に、敏感になるのではないだろうか。こどものころみたいに…。それが、大人げがないと映るだけで…。ほんとは、傷つきやすくて、先の見えない不安が怖くて、もろくなっている。傷つきやすいからこそ、大袈裟にことばを振りかざして、意図せずひとを傷つけてしまう。自分を守ることに精一杯だから、思わず、残酷なことも思ってしまう。オブラートや、緩衝や、相手のこころなんて、それどころでない、という風に。だから、余計なことを聞かなくてもいいように、神さまは耳を聴こえにくくし、自分を包む現実を受け入れる容量を超えてしまったときに、呆けという最終(防衛)手段を授けてくださる。のだろうか。ふと、そんな風に思えた。忘れるというのは、実はとっても素敵なことなのだ。なのに、どうして、忘れることを懼れて、こころを弱くするのだろう。忘れることは覚えとかなくていいことなのに…。こんな風に、思ってくれたらいいのだけれど…。(ちなみに、表題は、「天が見方をしてくれた」「天を見方にする方法」って読むといいようです。)