「愛は持続することによってのみ、その真実の力を発揮する筈だが、持続ということは言葉ほどにた易くはない。なぜなら、同じ愛の状態が永続することはあり得ないので、その間には、潮の満ち干きするように、自ら緊張した状態と弛緩した状態とが繰返されるだろう。愛が持続するのは、二つの魂の間の調和が、初めに結びついた時の緊張を失うことなく、絶えず少しずつ強められて行った場合に限られている。即ち、愛によって孤独が癒され、二つの魂の間に隙間風のはいることがなく、孤独が共通の孤独となり魂がもはや区別できないものになったとしても、愛する二人のエゴが、その機能を失ってしまったのでは何もならない。たとえ共通の孤独、区別の出来ない魂といったところで、二つのエゴによってこの愛が成立する以上、そこには常に二つの判断があるのだし、この判断が必ず一致するとは限らないのだ。もし二人の人間が同じように理解し、同じように判断するとしたならば、それは一人の方が自分のエゴを殺してしまった結果だろうし、また、もしそんな双子のような精神が存在したとすれば、二人の間に愛は少しも弁証法的に働かず、最初の状態から人間的に進歩するということもあり得ないだろう。」
「しかし愛が人生に豊かな収穫を与えるためには、その愛が理性に耐え得るもの、そして時間に耐え得るものでなければならぬ。」「手を引くことは同時に手を引かれることであり、愛する二人というものは、お互いに人間らしい間違いをしばしば犯しても、なお許し合い、理解し合い、希望し合いながら、同じ道を歩んでいくものだ。相手が完璧でないことを知り、それ故に、一層深く愛することが出来るというのでなければならぬ。」――。福永武彦著『愛の試み』から。三十数年前の初版らしい。既読だろうか。わたしには、いまだからこそ、とてもよくわかる気がする、そんな著述がいくつもあって興味深く読んだ。時をおいて、再読してみたいと思えるものの一冊になりそうである。ところで、その中で、古代人の愛の理想形を紹介した後に、「しかし現代人は最早そのような愛を信じることがむずかしくなっている。」と、あって少し可笑しかった。いつの時代も、ひとは同じことを嘆き、昔を懐かしむものなのだろうか。たとえば、紫式部さんや清少納言さんが、「万葉の時代のひとびとは、草木に眠る神を信じていて、もっとこころが綺麗だったわよねぇ~」なんて、言っていたのかしら、ってね。
「,too」ではなく、「only」が、つまり「also」ではなく、「alone」が、いい。きっとそんな意味が隠されていたのだろうか。ん?ことばは、ときに悩ましい、誤解と語弊をつくるものなのやもしれぬ。ことばの文。そこにこそ、ちいさな思いやりを積み上げることができるものなのかも。そう思った。「たおやかにかほりふかまるおほきあいかみのちからをあいしてやまん」。謎解き、伝わったかなぁ~。