夕暮れのそらのきらめきが、いつも以上に奥行きと豊穣ないろいろが交錯して見えたのは、雨雲が去った後の、時間を惜しむように照らす太陽の光線の加減だろうか。まるで、映画の中のワンシーンを見ているような、幻想的で淡くて繊細な空間が広がっていた。西に向って走る陸橋の上だったせいだろうか。海と空をわたってくる風が、日を追うごとにやさしくおだやかになっているように感じる。「いまこのときを、大事にしよう」。いつかもらったそのことばが、胸に染みる。「ほそくながくのんびりと」「大丈夫、時間はたっぷりありますよ」。いろんなことばに、ほんとにどれほど励まされてきたことだろう。ひととの出合いは、ほんとうに素敵なものだとしみじみおもう。
「聖橋」と聞くと、反射的に、快速電車に向って食べかけの檸檬をほうる、という情景を描いた詞が浮かんでしまうわたしなのですが、これも、ふるさとではなく東京のさくらが恋しいということがおかしいくらいです~の歌詞で、千鳥が淵を教えてくれたのとおなじひとので、湯島聖堂の白い石の階段に腰掛けて君は~で始まるそのうたが、初めて聞いたときからなぜかなつかしく感じていたのが不思議だった。それから、『防人の詩』の一節「わずかな生命のきらめきを信じていいですか/言葉で見えない望みといったものを/去る人があれば来る人もあって/欠けてゆく月も やがて満ちてくる/なりわいの中で~」を、かみしめている。
ちょっぴり蛇足。日本の名随筆集『友』の巻。円地文子さんという方が「異性の友情」というタイトルで、「それにしても、異性の友情というものは、恋愛と紙一重のもので、大変垢抜けたいい味を持っているけれども、それを自分のものにするのには、かなりな努力と教養を必用とするようである。~」と、思慮深い見解を示されておられる。白洲正子さんの本に触れたり、憬れたりしている単純なわたしなどは、それほど深くとらえたことがなく、そういうものですかねぇ~と思いつつ読んでいた。むしろ、異性の素敵な友達をお持ちの方こそ、信用と魅力の証しみたいに、とらえていて、そこいらへんは、互いの深い絆のもとに、それぞれが素敵な交流をもっている、っていうのこそ、さらなる信頼がうまれる契機になりはしないでしょうかと、思うのですが…。やっぱり、いくつになっても、大人の友情はたいせつなもので…。それに、若さの秘訣…だし。
それからもうひとつだけいいですか?。観ましたよ。これまたなんとか“行間”を垣間見たいというおもいを抱きながら…。でも、やっぱり、ほんものの“相棒”のほうが、ずっとかっこいいや、と、おもいながら水辺を歩いて帰っていたら、あの白鳥くんが「そうだね」って、賛同してくれているようで、ほんとにうれしかった。ありがとう。