「誰にでも好かれるようになるように…」。子供時分はよく言われたものだが、大人になって顧るにいささか奇麗事だとみんな知っている。それでも、なるべく嫌われたくないと遠慮してばかりいるひとや、いいたい放題したい放題ひとの迷惑かえりみずのひとまで、じつにさまざま。思えば、自分が好きとおもうひとのかずだけ、あるいは嫌いと思う人の数だけ、向こうもそう思っているとみてほぼ間違いなく、無理して好かれるために、あるいは嫌われないようにと、その場限りの言動をするのはいかがなものか、むしろ、ほんとうに長くつきあいたい相手なら、素直になるべく悪いところも見せるほうがいいのではないか、後からこんないいところもあるのか、なんてわかるほうがずっといいのではないか、その逆なら、がっかりのほうが大きくなるばかりではないか、なあんて考えをもっているのは、いささか日本人離れしているのだろうか。


だれにも、善と悪は同じくらい同居しているもので、どちらかだけを表に出さないと、自家中毒を起こすか、どこかに齟齬がおきてしまうだろう。だから、ほどほどなれば毒は吐いたほうがむしろいい。虫が好かない、反りが合わないと思えば、互い距離感に注意を払い、癪に障らぬ程度に、離れてあげるのがやさしさってものではないのかなぁ。無論、こんな考えをすべての人に理解してもらうのは難しいとわかっているけれど。ともかく、たとえどんなに理不尽でも、無駄なけんかは極力買わない。買ってしまえば、たとえどんなに相手に非があろうとも、自分も同じ悪い“気”に包まれてしまうだけ、だから。と、言うは易しではあるけれど、ともかく、ひとに嫌われるのはいっこうに構わない、ただ、マイナスの毒でひとを傷をつけてまわる側にだけは、絶対にならない。やっとことや言ったことは、いつか必ず自分に帰ってくるものだから。奇麗事かもしれないけれど、そんな風に考えている。


とはいえ、生きている限り、絶対に誰も傷つけないというのは、甚だ不可能にも近いことであり、だから、難しくて生き甲斐のある課題になるのでしょう。老いた母親に「わたしは、なんにもいらないからねぇ~」。いつも言うのだが、彼女にはどうしてそんなに欲しがらずにいられるのかが、理解に苦しむらしい。自分がいいおもいをしないで、どうやってひとにやさしくできるのかと思うのかもしれないが、それは違う。ひとにやさしくするからこそ、自分にもやさしくできるのであって、そして、ものはあくまでものであり、ひとはこころで動くもの。でも、ひとはそれまでもっていたものを失わなければいけないときが最もつらい思いをするのも事実。だれだって、自分がいちばん可愛いから。だからこそ、なるべく欲張らずに綺麗にいたい、もたずにすむものはもたずにいたい、いちどもってしまえばやっぱり惜しくなるかもしれないし、ともあれ、ひとりぐらい、こんな頑固なかわりものがいたっていいのでないのかしらん、ふとこんな風に思っている。実は、案外、真剣に。