ごめんなさい。書き終えて、かりかりしたこころの温度が少し、下がったところで、気が付いた。はた、となった。どうして、わからなかったのだろう。自分が恥ずかしい。それから、なんども、なんども見返して、瞼が熱くなった。「お前の目は節穴か?」父に叱られるときの文句が浮かんだ。完全なる暴投もいいところである。ほんとうに、そのとおりだと思った。ひとを責めるまえに、自分ができることをどうしてもっと謙虚に考えようとしないのか、である。目が覚めた。ずっと気懸かりだったこと。夕刻にはわかる。そして、もう少し早めてもらえないか、お願いしてみるつもりである。あとは、人事を尽くして天命を待つ、の心境である。


やっぱり、この世は“愛”でしょう。死ぬまでずっと…。と思っている。これだけたくさんの書物を読んでいるのも、どこかでそのことへの支えをさまざまなひとの言葉に求めているのかもしれない。恐らく、それはたくさんの苦労とも一緒かもしれぬが、それでも、それだけの価値がある。意味がある。だから、簡単にあきらめるわけには、いかない。瀬戸内女史が、源氏物語の解説の中で、「情熱というものは、はるかに人力を超えたものである。それを知らぬひとには、とうていわかりえないが、それでも、それを知る人の人生にはほかにはない深みがうまれる」とおっしゃっていた。“想い”をなんとか叶えたい、そればかりを願っている。


ピアノ~ではないが、もしも願いが叶ったら、なにごとも、自分だけが独占したりなんかしないで、なるべく、いろいろなところに気やこころを配れるようになろう。時間でも。空間でも。そして、なるべく、自分は無欲でいよう。どんなことも冷静に受け止めよう。なるべく、ひとにあげられるものは、たいせつなひとやそのたいせつなひとたちにそっとあげよう。僭越を畏れず、なにごとも恐れず。ありのままの自然体で。そんな風にひそかに心に決めている。