気分がむしゃくしゃしているときに、筆を執ったら、きっととげとげしたものがあちらこちらに、でてしまうのでしょうね、と思いながら書いている。ほんとうに、自分のものになるのはこの世にはないのではないだろうか。じぶんのこころ以外に。と思う。だから、親とはいえ、その吝嗇部分が垣間見えたりすると、近しいひとだからこそ腹が立つのだろうか。自分が逆の立場なら、まったく惜しまないと、思うからこそよけいに。ある人によると、4、5歳までと12~15歳ごろの、親との関係で本質的な性格が決まってしまうのだという。別に、地球の中心部分を見た人は、いないけど、それでも地球を愛せるのだから、(というのは少々乱暴な展開ですが。。)ともあれ、だれにも、いいところと、わるいところがあり、どちらかから目をそむけ蓋をしようとするから、余計に醜くなるのであり、だから開き直ればいいというわけではないけど、どちらもあってこその自分というように(だから、だれかをこころから好きだと思うのは、そんなのをひっくるめて好きだってことだと思う)、自分でそこらあたりを受け容れてどこかで甘えさせてあげないと、肝心なときにほんとうのやさしさをひとにあげられないのではないだろうか、と思って、ちょっとおなかの端のあたりをきりきりさせている。


子供のころ、胃腸が弱くてよく夜半に目を覚まし、苦しいおもいをしていたのだが、母親のほうは、すぐにあれが悪かった、あれのせいだ、と原因ばかりを追及しようとして、でも、わたしは、口にはしないけど、そんなことはどうでもよくって、ただいまはつらいのだから、黙ってそっとそばにいてほしい、と思うのだけれど、そういう何もしないやさしさもあるっていうのが、理解されなくって、いつも、ひとり怪獣か鬼の目が隠れているように見える天井の模様を見上げていた。たぶん、ひとにはいろんな強さややさしさの種類があって、その広さや深さに応じたやりかたでしか対応できないんだ、って、いまなら少しは頭でわかるけど、それに、これが、他人なら、あ~このひとは冷たいひとだって、片付けるだけでいいのだけれど、そうもいかないから、何かあるたびにこころをいためたりするのでしょうね。もちろん、これも仕方ないねって、わかっているからこそ、やっぱり哀しくなったりもするのでしょう。いつか、ある女流作家が、書かれていたが、母と娘は、なかなかどうして「なまなかなもの」と。見事な掴み方だと感心した。ともすると、男性の前では女同士にしかわからないことがある、ってみたいに振舞いがちだが、おんな同士は時代を超えて永遠のライバルであり、互いに本当の核心部分は触れないところがある。だから、女性同士には、男の人ように、竹馬の友ってのは存在しにくい。のだろう。


たぶん、しあわせってのも、ふしあわせってのも、それがあるのは、こころのなかで、そしてそれをつくるのも、ひとにあげられるのも、こころなのだろうな、って。だから、どんな状況でも、自分がふこうだって思う人はどこまでいってもそうなのだろうし、しあわせをみつけることができる人は、ひとのしあわせも素直に願ってあげられるし、きっと、そんな些細なちがいしかないんじゃないだろうかなぁ、って。そして、恐らく、いつも自分だけは損したくないしたくないと思っている人が、それでもしてしまう損と、別に少しぐらい損したって構わないと思っているひとが、なぜだかわからないけど、得てしまう得(=徳)が、あるとして、案外、少なくないレベルでそれらは同じくらいなんじゃないかな、って。性分、というか、天分なのかもしれないけど、要はこころの感じ方しだいって感じがする(と、言い聞かせていまは自分を宥めているのだけど。。)してみると、しあわせってのは、いつも自分のこころの中に住んでいるものなのではないか。それに気付くゆとりがあるかないかの違いだけで。。。そう、あの物語「ねずみの嫁入り」みたいに。なんてね。