宵口の散歩が嬉しい季節になった。そういえば、二駅手前で降りれば、心地よい水面を通る風に出会える縁起のいい名前の橋を渡れることを思い出し、とおくの夜景と静かに揺れる川面を眺めるちいさなしあわせ時を味わった。秋口にも、肌に感じる風が気持いい時季があるけれど、急かされるようにやってくる夕暮れのせいか、宵の時間をゆったりした気分で迎えられるのは、今がいちばんなのだろう。なんでも、かかとを刺激するというのは、ことのほかよいことづくめであるらしく、なるほど、現代の三上にもひとつ加えるなら、散歩の上(つまりは、足に優しい土か芝生だろうか)にしたいところだ。もっとも、オリジナル通りの、馬上が叶えば、さぞ気持ちいいだろうなぁ~、だけど。たしか、どこかで読んだけど、秘境の温泉にいくにしても、ドアからドアへ一歩も歩まず、車上のひとでいったのでは旅の意味は半減で、足をつかっていくからこそ、ほんとうのお湯と食事をからだの芯から愉しむことが、できるのだと。(あれっ?夢の中でわたしが勝手に思っていたのだったかな!ぁ?う~ん。)ともあれ、水と風のある風景が、とても好きだ。
雑踏の中での待ち合わせ。ときどき、自分には特殊な能力が備わっているのだろうかと思ってしまう。なぜなら、一瞬にして周りのほかのすべての人物を風景にしてしまえる、眼があるのかしら、と思えるから。視力は悪いはずなのに。待ちに待った、はやる想い、会いたくてたまらない、心地よい風、そんな見えない力が生み出す才能なのかしら。もとより、なんでも、自分のこころが元気になるように解釈したがる、おめでたい構造の心模様のせいでもあるのかもしれませぬが。ところで。野暮なるは重々承知で。第一印象なるものについて。なんでも、吉本氏によると、14、5歳までに感じるそれは、かなり動物的勘に優れていて、大人のそれのように強ち当たるも~当たらぬも~とは、ならないようですが。いまだからこそ、ちょこっと聞いてみたい衝動にも駆られる。「えぇ~」なのか、「なあんだ」、あるいは「へぇ~」なのか、はたまた「ふう~ん」なのか。それで、だからどうだというものでもないのだが、はたして、どんなものだったのでしょうかねぇ、と。無礼はご容赦のうえにて。でも、訊ねるからには、同じくこたえる準備がないといけませぬわけで、やっぱりいいです、いや、やっぱりききたい、彌次郎兵衛みたいな心境で、まるで幼い子供の悪戯心みたいですねぇ。遊び心は、若さの秘訣!ですから…。