よしっ!、と、意気込んだからいいものが書ける、とは限らない。ゴルフと同じ?なのかもしれない。いつだったか、漫画家の弘兼氏が、忙しくて時間のやりくりが大変なときほど、いい仕事ができるものだと、言っていた。とくに、頓知や知恵を要するものは案外そういうものなのかもしれない。昔の人は、三上(枕上、厠上、馬上)といったそうだが、いまなら、さしずめ、車の中と湯船の中だろうか。ふっ~と、力を抜いたときに浮かぶアイデアがあったりする。もっとも、寝てる間に見る夢は、自分でも驚くほど奇想天外で、時々おもしろっくってしょうがいない!、と思いながら起きるのだけど、その時には、もう詳しい筋立てを忘れているから、駄目である。この前、出掛けにどうしても車の鍵が見つからないので、仕方なくスペアを持って車までいくと、運転席のドアにさしたままになっていた。「ご自由にお乗り下さい」状態で一晩。その状況でどうしたら忘れられるのか、自分でも不思議である。あるいは、「あっ、忘れた!」と思ってダッシュして取りに戻ったら、手に持っていた、とか。かように、笑うに笑えないことには事欠かないのだが、笑えることを考えるとなるとこれがなかなか難しい。力を入れすぎてもだめ、抜きすぎても駄目、ということなのだろうか。抜けすぎているわたしには、ちょいと手強い。五月雨をあつめて喧しはんせいのつき、(!?)に、ならないように気をつけよう。
いま、ちょうど、吉本隆明氏の『真贋』というのを読んでいるのだが、ものすごく丁寧に噛み砕いて、さらに平易で明るい言葉で語れる、バランス感覚?あるいはやさしさ?に感心しながら捲っている。氏の少年時代の心境を綴った「少年」だったか、「恋愛論」だったかで、氏が娘をもったときに、その子にしてあげられる最大のことは、子供が何かに夢中になっている時間をなるべく邪魔しないように守ってあげることだと思った、と書かれていたのを見て感銘を受けた。なるほど、ほんとうにそうだと思った。やさしさとは、きっとそういうことなんだろうなぁとしみじみ思った。重すぎてもだめ、肝心なときに軽過ぎても駄目、でも、ふだんななるべく軽妙に、がいいのだろうなぁ、と。ときに。子供の頃は、「運動神経の塊のようだね」と、いわれ、ちょっと調子に乗っていたけど、いまでは、運動神経が固まりになってしまった感じがする。それでも、ときには、遊びに夢中で必死に汗を流す時間、というのがあってもいいのかなぁ、とふと思ったりする。さて。青色の似合う季節になった。海の青さも空のそれも微妙に季節ごとに色合いが違う。それから、雲も。そろそろ夏のおもかげが近い。英語の色には感情があって素敵だなと思ったこともあったけど、どうして、日本語だって、いや、それ以上に、漢字、カタカナ、ひらがな、それぞれで微妙に違う表情を生むことができる。この、繊細な趣きには敵わないでしょう、と今では思ってる。それにしても、とりとめのなさすぎる雑筆を、どうかお許しください。ともあれ、元気です。