『城山三郎が娘に語った戦争』を一読して、なんともいえないフクザツな感慨に包まれた。好きなひとの望むことがすべて叶えばどんなにいいのに、これまでもっていたたいせつなもの、かけがえのないものをすべてそのままに、新たに願うものを手にできたらどんなにいいのに、難題と知りつつ、そうおもう。たんに、いい子ちゃんになりたいだけなのではないかと批判をうけるかもしれぬが、それでも願いは尽きないのがひとのかなしい人情なのかもしれない。でも、それは、誰も傷つけることをなしに、すべてのひとの愛を成就させることを願うのと同じくらいに難しいことなのだろう。我が父は、「戦地に赴き、無事に帰れなかった友たちをおもったら、そんなものもらえない」と恩給を固辞したひとで、それをわたしは心から誇りにおもっているが、(恐らく、かつて、「男たちの旅路」をいうのを見て、その主人公の生き方にひどく心を揺さぶられたのは、そのせいかと、あとで気付いたが、)、わたしが生まれることとなり、それまで名乗っていたかつて愛した人の姓から旧姓に戻った父の生き方を顧ると、どこかで、出世も、そして恐らくは自分の子供さえ持つことをあきらめていた節があり、ともあれ、ときに、わたしがとても恵まれた運を感じることがあるのは、父のそんな覚悟ある綺麗な生き方のお陰なのかもしれないと、改めて神妙な思いに包まれる。(無論、父はそんなことをひとことも私に語ったことはなかったけど。)だからというのも、少々気負いすぎなのかもしれないけれど、とにかくなるたけ、よくといったものからは離れていたい、心がだれに対しても恥ずかしくないように、清貧でいたい、持ち物はなるべく少しでいたい、もし自分がもらえるものがあるならなるべくひとに譲りたい、そんなふうに心に決めている。といったら、すこしかっこつけすぎだろうか。
このまえ、友人のひとりからコンペにお誘いを受けた。いい賞品がたくさんでるから、と。「申し訳ありませんが、一度は研修生の身だったので、規則が許してくれても、賞品のあるコンペには出ない、そう決めています」。そうメールを返したわたしを、彼らはどう見るのでしょうかねぇ。本音を言えば、賞品などべつにちっとも欲しくない、というのが真相なのだが、恐らく、可愛くないやつ、そう映るのでしょうねぇ。確か、あるCMのコピーだったようにおもうが、「あなたは、あなたが選んだものでできている」。なんとも深いフレーズがあった。何を持つか、そして何を持たないか、ひとは知らず知らずにたくさんの選択肢に囲まれて生きている。役柄(役職?)がひとをつくる、味をつける、のと同様に、持ち物がひとをつくる、のも、一理なのかもしれない。とまあ、だいそれたことはひとまずおいて、ささやかな小物ひとつ、もちものひとつに、ささやかでもいい、自分らしいこだわりがもてたらいいなぁ、ふとそうおもう。日常に使う小さな道具ひとつにも、そんな風情や気配をおもいやれるようになりたいなぁ~、ふとそんなふうにおもう。城山氏の書かれたエッセイ『無所属の時間で生きる』には、そんなことに思いを馳せる契機をくれる珠玉のことばがあふれている。ひとは、たとえかりに大きな集団に所属していようと、いまいと、それはとらえどころの問題で、みながなんらかの一員であるともいえるし、だれもが個であり、(こころは常に)自由である、ともいえるし、そうおもえば、すべてのひとに共通しうる想いについての、支えを教えてくれているような気がして、悩めるひとに是非一読を、そういいたい心持に、ふとなった。