ひとは、何を求めさまよっているのだろう。いや、いどんでいるのだろう。オリンピックを、あるいは世界大会を目指している選手たちである。たとえば、フィギュアスケート、たとえば、マラソン、たとえば、水泳。ほかにもあるけど。自分が自分であるためのものを探し求めているように見えなくもない。つまり、自分自身との闘いにひたすら挑み続けている人なのだろうか。それらを突き動かすものの深さに、ただただため息さえ浮かぶ。あるいは、自分のためだけでなく、誰かのための闘いの場合もあるのかもしれない。それもひとつの愛、なのだろうか。ひとは、愛だけでは生きていけない。いや、そうだろうか。愛なしでは生きていけないのではないか。河合氏の著書「日本人という病」を読んでいると、「病を深くし」てはじめて、見えてくるものがあると書かれていた。自分のルーツについて、自分の使命などということについて、深く考えることもなく大きくなってしまった世代である。英語の授業で、identitiyという言葉をはじめて聞いたとき、「なんじゃそれ?」と思ったくらいだったから。そういえば、漱石は、胃潰瘍という大病をしたことで、感覚が研ぎ澄まされることになったとどこかで読んだ。ふ~ん、と思った。


相手の気持ちがうれしく、有難ければ有難いほど、不安も同時に訪れる。信念はかわらない。いつか、きっと。そして、少しでも心安らかに、時を過ごせていますように。いつも、そう願っている。ただ、相手の心の安寧を願う心と、自分の心の切望とが、ともすると矛盾してしまうように思えて、ジレンマを覚える、時がある。まっ、いいか。また、また、勝手に深く考えちゃって、なあんて、思われてしまうのかしらん。週末の夕方に訪れると、案外、居心地のいい空間をもらえる昔からの喫茶店がある。その銘柄のコーヒーを頼むと、砂時計が一緒にやってくる。わさびのほどよい香りのするアボガドのサンドイッチがお気に入りで、綺麗に食べるにはちょっとコツのいる挟み方がいささかの難点といえば難点なのだが。もうひとつ別のお店の、アボガドサンドには、クリームチーズが塗られていて、アボガドの薄いカットが芸術的である。ともあれ。ときどき、どうしても、その街の空気に触れたくなったときにしばし、分厚い本と一緒に訪れる。「羊の目」。かつて、何度も見た映画「ブロンクス物語」が、ふと浮かんだ。そこには、男の孤独(な闘い)がある。そんな風に思えた。