私事だが、小さな小さな手術を受けた。ほんの十数分で終わるものなのだが、それとてオペには違いなく、見上げると目の前には、無影燈。まさしく、俎上のなんとかで、決して気持のいいものではないなぁ~とそのとき思った。「キンチョーしてますか?」とお医者さん。「うーん、たぶんだいじょうぶ」と間の抜けた声の私。ほんとは、精一杯のジョークで(たとえば、「ニッポンの夏ですか?」とかね--;)返してみたかったのに、ちっとも浮かばず。ともあれ。ことばの通じそうな先生で内心ほっとひと安心。考えてみると、痛みを感じないというのはある意味こわいことのような気がしないでもないけど、まさか麻酔なしってわけにもいきませぬし。動物病院でよくワンちゃんたちに被せてたのと同じような緑色の布を掛けられる。なにしろ、盲腸さえしたことのない身である。でも無影燈は2度目。高一の夏に、簡単な外科手術を受けて以来。その時は、全身麻酔だったので、あっという間に意識が吸い込まれた。いずれにしても、注射より大きなものがからだにささるというのは、やっぱり気持のいいものではないことですなぁ~。これが感想、かな。そして、改めて、そういう大事を仕事にされる方々の大変さと、ご苦労に感心を深くした日でもあったのでした。


見上げると、天空には上弦の月。家路までの道の途中で、ふとそれを見つけると、まるで見守ってくれているようで、なんだかほんのりうれしい気分になる。それで、なんどもなんどもそこにいるのを確認するように見上げて安心、ホッとしている。これって、変ですかねぇ~。年を経るごとに、自然のもの、古いものがどんどんいとおしくなっていく。古いお寺の柱にしても、やさしいお顔の仏像にしても、あるいは、つくったひとの手の動きや温かさが伝わるような陶器にしても、織物にしても、和紙にしても。日暮れの空の色にしても、そして、月の光にしても。窓から手を伸ばせば、隣の家のバスクリンに届きそうな都会の家々を見るたびに、なんともいいようのない感じがする。それでも、土に、地に、足のついた家であることにきっと大きな意義があるのだろうなぁ~とは思いつつ、でも、力いっぱい石ころを投げても届く範囲に隣家のない家でそだった贅沢な田舎者にはやはり、その真髄まで理解するのは難しいのかもしれぬ。雨の日以外は、毎日毎日土の庭の上で遊びまわれていたことの有難さを大人になって痛感しているし、感性や情緒に少なからず恩恵を受けているのかと思うと感謝さえあり。「仮にそれを『自然』と名づけてもいいが、それは外にある自然だけではなく、自分自身の内にある自然をこよなく愛し、愛するが故に悩みつづけたのではないかと思う」。『西行』という著書の中にあるというその一文が、無しょうに心をしげきして、そんなわけで、あれこれと、とりとめのないことを綴ってしまいました。