春の陽は3日と続かない、と古人は言ったそうな。すると、雨だって3日は続かないってことだろね。忙しい天気で、まるで、おてんきメニューのフルコースといったところか。風あり、雷あり、雨あり、らしい。思いがけず、週のなかばでめぐってきた休日の前夜というのは、ありったけの愉しみの種をまきたい衝動にかられるものだが、結局、ふだんどおりの変わらない過ごし方がいちばん有難いのだと、合点して時が流れる。いつだったか、たまたま見ていた教育テレビで、高文明さんという学者さんが「ほんとうのことば」について話していた。それは、ひとを生かす、苦しくても生きられる、そして死ぬことも可能にする、そんな真実のことばのことだと理解したのだが、とても印象に残った。短くても、ほんのひとことでも、そんな風に力強く相手の胸に届くことば、生きるちからを与えることばのことだろう。たしかに、身に沁みてうれしくてしかたのないことばがある。感謝。


白洲正子さんの生き方を紹介した文庫に首っ引きになっている。自分でぼんやり考えていたことに明快な言葉が与えられるのは、爽快な体験です、とあるところに書かれていたけれど、まさにその通り。感性というか、感覚の奥の方まで振動が伝わるような、納得や感心の連続で、まさに爽快。たとえば。茶の湯や花について。「そのへんの先生に就いて適当に教わる、というようなことに我慢できなかった」とか、「たいせつなのは、根本にある精神を咀嚼し、理解した上での、自分なりの感性の発動」とか。 遊ぶことと休むことは全く違う。遊びは、本気で一所懸命遊ぶ。でないと、そのものに対して失礼である。これまで、漠然と思い感じていたことに、強靭な芯を一本もらったような、そんな心強さが嬉しかった。蛇足だけれど、ゴルフも、多分、「間」のとり方や愉しみ方、知性と感性の発動、時間を止めるということの妙、立ち居振る舞いや無駄のない動きの美しさ、そんなことを追究できる舞台のひとつなのかもしれない。(時間を止めるというのは、一打へのぞむ一定のリズムと動きの間は、ひとつのシーケンスで、時間が止まったような時空間を作ることができるという意味で。)自分なりの美学、そんなものをもてるひとになりたい。ふと、そう思った。