そうはいっても、日暮れ時、すっかり長くなったたそがれ時、信号待ちのひとときに、前方のテイルランプにほのかに照らされ、ひとひらふたひら、ボンネットのうえに舞っている姿を見るにつけ、あるいはまた、ちいさなちいさなつむじ風にさらされて、駐車場の片隅で、人知れずかすかなうずを描きながら円を描いているはなびらたちを見るにつけ、この世の無常を、いきとしいけるもののはかなさを感じずにはいられない、なあんていうのはちょっぴり感傷がすぎるだろうか。ともあれ、開花からあまりにはやすぎる盛りをむかえる花たちを見るにつけ、いっそうかなしい気がするものである。もっとも、おへそがすこしばかり曲がっているわたしは、いつでも、満開のさくらを素直に愛でるのが少々苦手である。あとは、散るしかないはなたちをみていると哀しみばかりがつのる気がして。さくらを愛したという西行氏のそのあたりの心境(こころぐあい)を聞いてみたいものだ、とふと思う。


「机の上の花瓶の位置をちょっとずらす。あるいは花瓶のそばに画集を一冊並べてみる。それだけでも空間も風景も人の気分も変わる。そんなふうにちょっとだけ言葉を動かすことが俳句という小さな詩を作ること」。あるひとの書いた文章を引用して、さらに、これはコラムにも言えること。朝いちばんに眺めたそれに、はたと膝を打ち、なるほど、なるほどと呟きながら家を出る朝は、こちらの気分も何となく弾む、と、ある哲学者の方が、そんなふうに書いておられるのを目にした。もっとも、16年ほど前の初出ではあるのだけれど。そんなふうに、ちいさくとも、さりげなくとも、はたまた、ほんにささやかでも、日々の時間の中で、波間を漂う帆船のように浮いたりときに流されたりするこころの機微を、うまく言葉に載せることができたなら。どんなに素敵であるだろう。白洲正子さんは、戯れに、あの世にいったらだれと一緒になりたいですかと問われ、西行さんと答えておられる。旦那様ではないのですかと再問されると、この世で充分に会いましたからと、お答えになっていらっしゃる。はあ、なんて素敵なのでしょう。思わず、ため息がでてくるほどに。