気がつけば、すっかり霞たちこめる空と海である。そして、枯れ葉いろだったくさたちが、いっせいにみどりに衣替えを始めている。そういえば、いつか窮地に陥ったくるまを助けに来てくれたおじさんは、「こんな仕事をしていると、季節感はほとんどなくなるねぇ~」と言っていたっけ。そういうものだろうか。ただ、空の色を見て、季節を判断していると言っていた。雲のない空の色だけでも、わかるものなのだろうか。こんなに惚れこんじゃうとは思わなかった。ほかのものなど、とうてい考えられない。この形、この色、この感覚、すべてがいい。二度とこんなのには出会えないとさえ思う。出逢ったとたんに、ほかのものの見え方がすっかり変わったくらいである。これじゃなきゃ、もういらない。なんて子供染みたことまでつぶやいてみたくなる。形或るものはいつかなくなる、と自分で言っておきながら、であるけれど。不思議ですねぇ~。ここまで自分が、一途になれるとは自分でも驚きな、そんな気がする。一度はリタイアの期限を決めたつもりなのに、戻ってくると途端にそれが揺らいでくるのだから。やっぱり好きなものは、どうしたってやめられないものですねぇ~。父の気持が、いまさらながら、ほんの少しわかった気がした。(それにしても、よく「気」のするわたしである。)


又聞きなのだけど。あるドラマに主役をされている役者さんが言っていたという。「これは、アルバイトだから。」ほかにしなければならないことはもっとあるんだ、と。さらに、軽い感動を覚えた。深いおもいと、役への誇りがないと、そんなことは口にさえでてこないだろうな、と思って。思えば主役以外をされているのを、知らない。かつてのあのドラマを除いて。主役しかやってこなかった方というのは、得てして~~な場合が多いけれど、それも10代のころから。仕事が、役柄が、ひとをつくる場合もあるということだろうか。とくに、どうしたってそれまですべての時間の積み重ねが滲み出て現れる、職業の場合は尚更だろう。運、というものだけでは片付けられない何かがある気がして。刹那、遠いところをみるおもいに包まれた。中学の頃、それこそ勉強も運動もいちばんで、生徒会には一切タッチしようとしなかったら、先生に「どうして自分のことばかりするのだ。やればできるのに」と苦言をもらった。でも、だからこそなるたけこれ以上目立つことはしたくない、と思っていた。言えなかったけど。小さな目に見えない嫉妬ややっかみを受けるのを避けたかった。そんなもん、蹴散らしちゃえばいい、と言われるかもしれない。でも、ひとは損得がからむと能力だけで素直にひとを認められる“出来た”ひとばかりではないから。マイナスのエネルギーとつきあわされるのほど、無益でむなしいことはない。(哀しいほど、意地悪な気の被害を多く受けてた気がする。だから、実力だけで居られる(ように見えた)世界に憬れたのだろうか。でも、そこでは女性を敵にまわすということをすっかり失念していたうっかり者だったのだが。かくも、いっつも大事なことに気付くのが遅いわたしである。)


やさしさは伝染するんだ。そして、その逆もしかり。だから、つよくてやさしい空気に触れるととてつもなく、うれしくなつかしく、なごやかな気持になれる。自分がおもっているやさしさというものや、つよさがこのひとになら伝わる、わかってもらえると思えることのなんとうれしきことか。これは、わかるひとにしかわからない。あたりまえだけど。行間から、空気から滲み出てくるようなものである。想いがつのるとひとりでに、涙がこぼれてくるのとおなじようなもの。涙は、こころの賛同、喝采、共感なのかもしれない。河合隼雄氏の著書「大人の友情」。人間関係というのはほんとうに難しい、で始まる一節に、「その親しさを示すときに、日本ではどうしても一心同体のイメージがつきまとう。根本にはたらいているのは融合の力である。~」とあった。互いに「個」というものを大事にし、離れていても信じあっている、つながっている、という適当な距離感を認める“大人”が少ないということだろか。その理由がわかってもなにがどうなるわけでもないけれど、でも、きちんとこうしてわかりやすい文章で説明してもらえるだけで、軽くなるこころがある、ときがある。ありがたい一冊だった。ほんに、読書は、長き友である。それも、かけがえのない。いや、きっと友以上、になる。だろう。(嗚呼、難しい。もどかしい。)