やさしさにはふたとおりある。強さは、優しさであり、弱さは、易しさ、ではないだろうか。ひょっとしたら、かみさまは、優れているひとにだけ、耐えられるひとにだけ、苦しさや試練を与えるのだろうか。それとも、みな平等に与えられてはいるけれど、易しいひとたちは、自ずとその道を回避する方を選んでいるだけなのだろうか。自分でも、不思議に思うことがある。いいことが待っているときには、その前にはむしろそれに見合っただけの苦労をしないといけないのだろう。そう思って、時々、自らすすんで小さな不幸を覚悟しようとしている自分に驚く、そんなことがある。でも、とても大人で、かっこいいなと映るひとは、みな、ひとしれず、苦しさやつらさを引き受けていて、だからこそ、得られるほんとうの輝きみたいなものがあるのだろうな、と思ったりする。だから、必ずしも全てのひとにほんとうの恋愛が訪れはしない、というのも、そんなことと無縁ではないのかもしれない。と、ふと思う。
かつて、気儘な職場の女性たちに旅に誘われたことがある。いつも4、5人でわいわいと出かけているのだとか。その時は、老舗温泉地が目当て。ひとりの知り合いが別荘をもっているからと。誘ってもらえたのはとても嬉しかったが、はたとなった。はたして、これまで女だけのそんな行動をしたことがあったからしらん、と。保育園のころから、気が付くと(有難き哉)紅一点か、女の子となら一対一か多くてふたり。つまりは、おてんばだったということなのだが、女どうしの、まるでドーナツのような、真ん中(本音)には決して触れないおしゃべりが苦手で仕方がなかった。無論、グループの中には聞き上手で、余計なことは言わない賢きひともいるのだが、どうにも、団体というのがいけない。それも女性の。いつだったか、これも職場の、とても賢い年配の女性に、私は相手が誰でも態度(温度)がまったく同じ、とお褒め(これはすごいことだと、言われたが、一瞬言葉どおりに意味が解せなかった、まあ、ともかく。)の言葉を頂いたのだが、恐らく、そうではない方々の、男性の目から解放された、言いたい放題(?)の鬱憤晴らし的言動の居心地がとても嫌いなのだろう、と思った。もっとも、パートーナーもしくは異性の友達のいないひととは、おとこであれおんなであれ、一定の距離を置く、という欧州かぶれの方針も多少影響しているのかもしれないが。もし、白洲さんや塩野さんに尋ねたら、なんと言われるであろうか。くだらないと一蹴されるだけかしらん。
宝くじは間違って当たったら困るから買わない。やっと、大人になれたというか、物事の道理が少しわかりかけてきた気がする。なるべくなら、余計なひとの羨望や嫉妬の枠から外れていられることがしあわせ。万が一、そんな幸運に与ってしまったら、半分以上、いやそのほとんどをひとのために使わないといけない、そういう使命に与ったということだろう。形あるものはいつかは、なくなり、また、くりかえす。死ぬときは、そういうモノは限りなくゼロにして逝けたらどんなにかっこいいだろうと、ふと思う。きっとそんなに綺麗には、無理だろうが。生きることと同様に。ともかく、なるたけ、余分なものは持たずにいたい。この頃、とみにそう思う。年老いて、どうしてそんなに欲張り(な考え)なの?と思わせてくれる母親のお陰かもしれないが。ともあれ、自分にもし出来ることがあるとしたら、今あるものをしかるべきひとに託すこと、そのバトンをきちんと引き継ぐ役目にあるのだろう。なるべく財運を手放すことで、得られるしあわせの方が大きいのだろうなと、なんとなく思う。少なくとも自分にはそれが、向いている、と。茶道は、天上人の、風雅を極めたひとたちの極上のあそびの世界なのだという。贅沢や、財はいらないが、そんな欲やしがらみを超越したところにある、あそびの精神とはどんなものだろう。知りたい、学びたい、そういう願望だけは、ある。だから、決して無欲なわけじゃない。そういえば、ゴルフの1打も茶道のそれに、とてもよく似ていると、書かれていたっけ。本来、風流をたのしむためのあそび(ごころ)がそこにもあるのだろう。