読む速さは、もしかすると食べるはやさにも通じるのかもしれない。ときと場合、相手によってももちろん異なる。サクサクっと、斜めに読んじゃうときもあれば、好きなとこだけ抜き出して目を通す場合だってある。かと、思えば、一字一句なんどもなんどももどかしいほどゆっくり味わいながら、読んでいたい、なるべく終わりがこないでほしい、そう思うときもある。いろいろである。たまには、息抜きもたいせつかもしれない。小難しい哲学書が並ぶさらに奥の棚の片隅でいつか見つけた本があった。翻訳書とくゆうの、ことばづかいの不自由さ、味の染みてない切干大根のような無機質なことば加減はあるものの、たいへん面白い一冊だった。うろ覚えだが、出だしからしてすごい。主語は、ひとは、だったか、おとこは、だったか定かでないが、ほんとうの勝者とは、金持ちになることでもまして、偉い地位に上り詰めることでもない、ただ、確実な子孫を残せたかどうか、これに尽きる、とまあ、目の覚めるような文句から始まり、こんなことを研究という名で文献を残せる国柄に感嘆せずにはいられない話題ばかり。それを、まるで、映画の予告編のような軽快さ、淡白さで展開されているのがまた粋。
愛について、想いについて、など、文学調の感情、心情はひとまずお休み。あくまで、動物の一種としてのにんげんの生態についての好学、知識とわりきれば、面白い。これを、英訳して中学生に読ませれば、辞書嫌いなんて絶対にいなくなること請け合いだ。後半は、いともたんたんと、医学的専門用語が繰り返されるので、斜め読みしないと、かえって疲れて気晴らしどころではなくなるのだが。その中に、こんな公式があった。体重を、身長の二乗で割るのだそうだ。アフリカのどんな山奥の部族の男性に見せても、「よい」と評価する体格は、限りなく20に近づくのだという。これは、文化や文明を超えた何か(基準)があるのだ、ということらしい。女性は、たぶん視覚的美意識に欠けるから、相手に対してそういう世界共通はないのだろうと思う。顔ももちろん、大切な要素に違いないが、全体のかたちとしての黄金比率なるもの、のようなものがあるとは。不思議である。幸か不幸か、20年どうにも変えられそうもない体重で計算したら、まさにそれ。あ~、顔のつくりも父方の血を受け継いでいたらなぁ~、と少し悔やまれるきょうこのごろであった。タイトルは、「女でよかった、男で~」。新刊で手に入れるのは難しそう。最寄の図書館か古書店にありますかねぇ~。
思えば、ゴルフをテーマに書き出したのが始まりだった。書くことに困ったときには、語り掛けたいひとを思い浮かべ、話したいことを書けばいいのかもしれない、そんなふうに始めたのだった。ところで。ボールを見て打てとは、いったい誰が言い出した大錯覚なのでしょう。そもそも振られるクラブの先はもちろん、ボールなんて絶対に見えない。ただひとつ、フィニッシュの後の飛んでいくボールの後姿を除いて。パターにしてもそう。テイクバックするヘッドを目で追いかけただけでもてきめん、ミスにつながるし。確かに、雑誌に登場するスター選手の連続写真を見れば、見ているようにも見えなくもないが、まず視覚としては認知してないはず。ただ、頭の軸がぶれていないから、結果的にそこを見ているような姿勢になるだけ。実際は見えない。なのに、ボールを見て打っている限りは、ほんとうの感覚はやってこない、そんな気がする。確かに、ボールもクラブも、すべてのイメージも全部自分の認識下で、制御しコントロールしていたい。いや、たとえ錯覚でもそうしたい。でも、哀しいかな、その望みと、ボールをずっと見ていたい安心願望から、一歩踏み出さないと、生み出せないものがある。それは、動いているボールではなく、止まっているのを打つからこその、盲点であり、真実なのであるけれど。だれもそれを言わないのはなぜだろう。それを言っちゃうと、誰でもプロみたいに打てて困っちゃうからでしょうか。だから知っていても、言わない、のだろうか。ゴルフ不思議のひとつである。