思わず、自分に「頑張れ!」と、叫びたくなる、そんなときがある。見上げれば、空はこんなに青いのに、肌を通り過ぎる風は、こんなにやさしいのに、あたまのなかでは、「全然へっちゃら」と強がっていたのに、やっぱり、こころのどこかが、少し泣きべそをかいている。そんなときがある。そんなとき、いつか見た一編の詩が浮かんだ。その詩集が並ぶ棚へと急いだ。タイトルは、「空が」。「空があんまり青いので/かた目をつむって/見たならば/母のような/やさしいものが/よこぎった/俺はうれしかった」という短い一編。作者は、21歳で夭逝した矢沢宰というひと。ほかにこんなのも。「詩を書くから悩むのか/悩むから詩を書くのか/そうだ俺は悩むから/詩がうまれるのだ」
もともと頑張っている人に、「頑張れ」というのは酷なことなのだと、いつか教わった。なるほど、と思った。あえて、多くを言わない、言わせないやさしさがあるのだと思った。もっとも、わたしの場合、いつもどこか能天気で、ケイコウトウなことばかりで、そして直感に素直ないたってマイペースなものだから、あんまり自分では、頑張っていると自覚できないところがあって、頑張れと言われると素直に、あっ応援してもらえてるんだ、とうれしくなる。とはいえ、ほんとはときどき、ちょいと元気をなくすときや、めそめそすることがそりゃあ、人並み(?)にあって、そんなときは気が済むまでそうしていようと自分に言い聞かせる。無理して元気出そうとするとかえってつらいということを、何度か学んだからでもあるのだが。と言いつつ、こうして書きながら幾分かの気晴らしをはかっている次第。
待合室での、息の詰まりそうな時間から少しでも解放されたいと、飛び込んだ書店の棚の中から、どうしてその本が目に留まったのか自分でもわからない。かつての青春がどんなものだったのか、知りたい気持は確かにあった。平和そのものの中に、生をうけ、男女共学が当たり前で、就職する段になっていささかの現実を思い知ったものの、それでも、将来への悩みや生きるということへの問いなんてほとんど無縁の学生時代を送ったことへの、いくばくかの後ろめたさのようなものがあったのだろうか。柴田翔著「贈る言葉」。まだ途中だけど、文字を追っていたら、気が付くと目の前の乗るべき電車の扉が閉まっていた。どうも、かなり惹き込まれているみたい。声なき声の、確かな“応援”を聞いた(読んだ)、そんな気がした。頑張って。