この春初めての沈丁花の香を嗅いだ。音だけでなく、匂いにもなんともいえない癒しを覚える齢ごろになったらしい。日暮れ時、茜から群青に色をかえつつある、山の端に、妖艶な円弧を描く下弦の月を見つけたりしても。自然の美しさに、感慨をもてるゆとりが生まれてきたということなのだろうか。露地に芽吹く香の物が食卓にのぼるたびに、晩酌のアテをうれしそうにしていた父の姿がふと、思い出された。わたしが生まれた父の齢をひとに話すと、それはさぞ可愛がられたでしょうと、つまり甘やかされたのでしょうと、言われるのだけれど、食事をはじめ、とにかく作法にはとても厳しいひとだった。食卓にひじをつくなどもってのほかだし、ご飯粒をお茶碗に一粒残しても叱られたし、靴のかかとはもちろん、ランドセルを片方掛けしただけでもひどく怒られた。細かいところによく気が付くひとで、次に使う人のことを考えないような所作はいけない、と知らず知らずに教わった、のだと思う。いまは、とても感謝している。


塩野七生さんがある著書のなかで、「食べ方について」と題して書いておられる。詳しくは、そちらを読んでください、といいたいのだけれど、「食事の場面は、それに参加する者がどんな人間かを説明もなしにあらわす、最も効果的な手法の一つである。」「食事の仕方くらい、その人の子供の頃の家庭を想像させるものはない。なぜならば、あれだけは、歯並びの矯正以上に~むずかしいことだから~。~。大人になって、上品に振舞おうといくら努めても無駄なのだ。(と手厳しい。)とくに、マナーどおりにしようとするから、もっといけない。自信のなさが、あらゆる手の動き口の動きにあらわれてしまう。そして、自然にあらわれるからこそすばらしい自信は~」とあって、ほうほうと至極感心させられた。無論、自分が素晴らしいと奢っているのではなく、自分のは、ゴルフ同様わからない。けれど、なるほど、食べるという行為はとても無防備なだけに、正直で、父のそれ、母をそれをいま改めて思い起こしてみて、確かに小さいときの躾の違いを感じてしまうから。一緒に食事をして、自然と居心地がいいな、と感じるのは、つまりそういうことなのだろう。ことばではなく、わずかな空気を、知らぬ間に感じていたのだろう。ひょっとするとそれは、お茶を飲むだけでもわかってしまう、ものなのかも、しれない。


おなじ本には、「恋愛は、あらゆる人に恵まれるわけではない。死は、あらゆる人を見舞うが、恋愛は、誰にも起こる現象ではない。」「水をかけて、それでもなお燃えているならホンモノなどという考えは、恋愛を味わう資格なし、~」「女にとって、恋愛とは、自分の中にあった生命力に目覚めることであると思う。」(以上『浮気弁護論』)だとか、「世の中の種々相は、全部といわないがその大半は、ツマラナイ現象であることが多い。」「こうなると、同じ一行の書き文字も、同じ一句の話し言葉も、そこに凝縮された『力』がちがってくる。」「健全で自然で、人間の本性に最も忠実なこの欲望を刺激するのが、人のもっている魅力というものだろう。」(以上『インテリ男はなぜ~ではないか』)などなど、ときどき、わけもなくこころがささくれだったしまったと感じたとき、パラパラめくっているだけで、胸のすく風を運んでくれる。ときおり、恐らくこれを男性が読んだなら、女性とくゆうの歯に衣きせなさで、少々痛い表現もあったりするのかな、とは思うけど、こんな風に書けるのは、なによりほんとうに男性を愛し、このうえなくいとおしく思う心の持ち主だからこそなのだろうなぁ~と感じる。深い愛なくしてはとても書けないだろう。そして、先の章はこう結ばれている。わたしたち女は、男を尊敬したくてウズウズしているのである。男たちよ、その期待を裏切らないでください。そうでないと、わたしたちの愛を、誰に向けていいのかわからなくなります。子供に向けてみたって、そんなのは子供が成長するまでの話ですものね。と。