春は眠い。菰巻きの虫たちは、啓蟄の合図とともにここちよい眠りのまま天に召されたのだろうか。毎年恒例の名園の風物詩をふと思い出した。回廊式の庭園。故郷の園とは、またひとあじ違った佇まいがあった。春の午後、あの築山の途中に腰を下ろし、園を眺めながらボーっとするのもなかなか趣なことだった。ただし、いつもポケベルがなるまでのほんのつかの間だったけど。むしのいどころ。昔の人は、ひとのからだの中にもむしはいて、それがいろいろな感情を引き起こすのだと、考えてたようだ。たしかに、いろんなむしがいる。
ところで。ひとには、「知る」ということと、「感じる」ということの認識パターンがもしあるとしたら、(何を藪から棒に、というところですが。)このごろは、その後者がどんどん衰退する方向に進んでいる気がしてならない。知ることももちろん大事だけれど、相手の本質をみるには、やはり、感じることでわかる部分がとても大きい気がしてならない。コミュニケーションというのは、そういう眼に見えない部分も含まれるのではないだろうか。ちょっと親しくなったというだけで、やたらなんでもかんでも相手のことを知っておかないと不安で不安で仕方ないように映るひとがいるが、そういうひとは、きっと感じる部分で理解することができないひとではないかしらと、思う。子供や動物が、即座に自分に敵意をもっていないひとをきちんと判別できるのは、恐らく生きるための才能が溢れているからだろう。大人になったらいくらでも学べる知識など、別に子供に詰め込ませる必要など微塵もなく、それより、遊びを通して培われる感性や知恵のほうがどれほど貴重かしれない。パソコンの検索で得られる情報がすべてのようなってしまうことへの危機感を感じる。そんな順位に踊らされるなんて、馬鹿馬鹿しいように思える。情報はあくまで手段であり、材料であり、採用するしないは個々の判断、認識、観る目にかかっている。そういうことをきちんと教えてくれるところが、とても大事なのではないだろうか。とまあ、柄にもなく真面目なことをふと考えてしまった。
ときに。パーオンというのは、あくまでバーディをとるためにするものではないだろうか。だから、確実なパーが欲しけりゃ、むりやり乗せようなんてしちゃいけない、のではないだろうか。きちんとボギーオンしてパーがとれるようでなきゃ、いつまでたってもそのとき限りの結果に振り回される(だけな)のではないだろうか。とはいえ、なかなか思い通りにならないところが、面白いところでもあるのだけれど。そんな風に見方をかえると、定石にもいろいろあるような気がして、ちょっと興味が沸いてきた。