「あぁ~、このやさしくやわらかくなった空気を思いっきり吸い込むことができたらなぁ~」。花粉症の知人が、そうためいくのを聞いた。だれしも、コップが一杯になったら、ある日突然、発症するのだという。思えば、これとて贅沢病、現代病のひとつ。野山を駆け回る猟師や、遊牧民が罹っていては、死活問題である。生命体としては、どんどん弱体化していることの証しなのでしょうね。我が家の、敷地のとなりには、小学校のプール分くらいの広さの杉林があって、そんな庭で一年中遊んでいたからだろうか、とりあえずは、まだコップにゆとりがある模様。恐らく、どの季節にも、それぞれの質感や、空気の軽重のようなものがあるのだろうけれど、春には特有の匂いがあるように思う。なんとも、けだるいような、土くさいような、それでいてどこか甘くせつないような、そんなにおい。ぬくもりがうれしいような、こそばいような、なのに、ああ、とうとう来てしまったかという(引き返すことのできない)覚悟にも似た一抹の寂寞感のようなもの。どんな種類のうれしさにも必ずついているもの。うまくいえないけれど。


けれども、たとえば、「愛とは、胸がいっぱいになってのろのろと足をひきずり、あーあ、とため息をつくような状態だ」(『ことばが劈かれるとき』)、あるいは「愛(かな)し」が、「前に向って張りつめた切ない気持が、自分の力の限界に至って立ち止まらなければならないとき、力の不足を痛く感じながら何もすることができないでいる状態」(『日本語の年輪』)。それらを読むと、ジャズを聴いて胸が腫れぼったくなっている状態を、焦がれる心に喩えて「愛し」と表現したくなってくる、と、そう書いているひとは、自分をもう熱く煮えたぎらせたいとき、ぼくはいつもドルフィーとコルトレーンの『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』と『トレーンズ・モード』と『ライブ・オン・マウント・メルー』。哀しみのなかに深く自分を沈めておきたいときは、チャーリー・ヘイデンの『エレン・デイヴィッド』。ただただ素直になりたいときは、『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』。他者に対する限りない優しさというものを背中に感じていたいときは、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォーデビィ』。メランコリックな気分をクールに演出したいときは、マイスル・ディヴィスの『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』。超スピードで力のシャワーを浴びたいときは、山下洋輔トリオの『クレイ』。自分の存在の諧調をちょっと異次元に変換してみたいときは、オーネット・コールマンの『アット・ザ・ゴールデン・サークル』で激しく、あるいはモンクの~~、でそっと切り換える……。なのだそうである。この世には、まだ知らないこと、そして知りたいと思うこと、あるいはそんな風に感性を研ぐという方法が、こんなにもたくさんあるのだ、そのことだけでも、相当にうれしたのしい気分になる。


さて。「逆鱗」ということばのなかの「鱗」とはすなわち「うろこ」のことであり、干支では唯一想像上の生き物である龍の、あごの下にあるいちまいだけさかさについたそれのことで、それにふれると必ず~という故事が由来である。(せっかくのいい気分を台無しにするはなしだが、)いつかの、差出人不明の無言通知というのが、あいもかわらず続いており、もしかすると、その主は、別のところにも投函しているのではあるまいか。ふと、そんな悪い予感がしたので老婆心ながら一筆。もしかして。悪い予感ほど当たるものである。正々堂々と名乗れないのは、恥ずかしい(行為とわかっている)から?、いちおう失っては困るものがあるから?それにしても、気付いてからでも、じつに3年以上も毎月毎月決まった日付に。いったいどんな意味があるのでしょう。住所を変えられたらそれまでなのに。ほんとうの悪意ならもっと別の手段があるでしょうに。それ以上でも、それ以下でもない、ひたすらに規則正しく続けることにどんな意味があるのでしょう。欲しいのは、同情?それとも褒章?。そういうかなしいまでの規則正しさは、まぎれもなくオスのそれであり、メスには何が偉いのかさっぱりわからない。どうも、その主はこれを読むひとでもあるようなので、敢えてひとこと。どうぞ、お気の済むまで。ただ、ある日突然、コップがいっぱいになったなら、逆鱗に、触れるかもしれませぬぞ。強い犬が、ぎりぎりまで何食わぬ顔で、ほかの犬に咬ませているように。無論、わたしは、そんな強い犬ではありませぬゆえ、決してそんなことはしませぬが。どうぞ、ジャズに耳を傾けられるような、こころのゆとりがうまれますように。