褒められて雨水恋しや十三夜――。単純である。ノー天気である。いささか情けないけど、そんな自分がちょっぴり救いでもある。われながら。ちなみに表題は、(うおこおりをいずる)と読み、割れた氷の間から魚が飛び出るの意。二十四節気には、さらにそれを3等分した七十二候があり、これは立春の末候である。そして雨水の初侯は、土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)、つまり雨が降って土が湿り気を含むということ。日々映ろう四季の折々にかくも繊細な名前がついていたとは。これほどのことばを編んだ先人はほんとうに素晴らしい。季節によって、暦によって、食卓を彩り、決まりごとを守ってきた古人の風流(心)はいまいづこに。おもわずにはいられない。それから、神々しくさえ光って見える冬の月は、太陽とは逆に、寒い季節ほど天上に輝く。
「素材の断面を見せるというのは、旬を感じさせるためである。ものには旬というものがある。いや、あるはずだった。~。きものには十二シーズンあったのだ。衣替えするときのそわそわした感覚が、ほぼ日常的にあった。まるであの「月のもの」と同じように。いや「月」そのものがそう。~。毎夜、月にも名前があった。むかしの流行はいまのように記号的なものではなくて、身体の整理に、自然のリズムに感応していた。そういう深みがそこにはあった。料理だってそう。~。ひとにも旬というものがあるのだろうか。あったのだろうか。青年、壮年、熟年、老年……。それぞれの季節にそれなりの旬があるはずなのに、旬は「盛り」に取って代わられた。元気の満ち溢れている季節、青年から壮年にかけてを人生のピークとし、そのあとは下り坂という、なんとも貧相な一直線のイメージで人生が描かれる。そしてそんな下り坂でも「元気」を(年齢不相応に)保っていることが、まるで理想のように語られる。~。むかしのひとは、ほんとうの旬は「盛り」の後にくることを知っていた。消失の予感のなかでこそ旬がきわだってくることをよく知っていた。そう、「月は隈なきをのみみるものかは」と歌いえた。そのようなほんとうの旬を知ることがなければ、その存在じたいが、スーパーのトマトや胡瓜や白菜のように、まさに「味気ない」ものになりはてるほかない。目尻の小皺が、こめかみの染みがチャーミングに見えない眼に、旬を味わう資質があろうはずがない。」
いい言葉を聴いた。「人生というものはどこかにそのひとなりのオリジナリティがないといけない。それがないと、そのひとの存在価値がないようなものである」。スーダラ節を歌われていたご仁がおっしゃっていた。深い。「美しい顔だからいい顔に映るのではない/いい顔をしているから美しく映り、そして輝くのである/内面は時を重ねて、充実していくものである/いい顔とは、そういう内面に支えられて、現れてくるものではないだろうか/しわやしみが恥ずかしいのではない/それを恥ずかしいと思う心こそが恥ずかしいのだ/美容家として、あるいは、裕福な暮らしぶりの象徴として/厚い化粧でブラウン管に登場する女性たちのそれよりも/野山で、あるいは畑で、自然の恵みとともに働いてきた老婆たちの笑顔の方が/ずっとずっと美しいと思う」。生意気にも、いつか忘れたけど、自分が綴っていたものだが、これを励まされているようで、うれしく感じた。そういえば、最近は、年相応に老い、深く刻まれた皺が渋くて、うつくしい、そんな俳優さんをあまり見かけなくなった。食べるものや、生活スタイルの変化がそうさせてしまうのだろうか。年相応に老いたいものである。これが、いちばんかっこよく、そしてうつくしい。わたしは、そう思う。