叱られて花見小路のけふの月――。旅のいいところは、つかの間、浦島太郎くんになれるところにあるのかもしれない。「そうだ、~へ行こう」のフレーズに誘われて、というわけではないけれど、“特急”の往復よりもさらに少ない金額で、立派な2泊までついて指定席に座れるチケットがあると聞いて、思わず飛びついた、という次第。“各駅停車”だけど。。。(たくさん乗っていられるのだから、“お得”といえなくもない。)。恐らく、故郷の影響だろうけど、城下町(?)には、小雪舞い散る季節が似合う、そんな気がする。特段、何をするというのでもない、ガイドブックに進路を決められるのは面白くない、ので、気の赴くまま、時間を変えて同じ小路を歩いてみたり、勘だけをたよりに、小さな商店の犇く街の“台所”を覗いてみたり。歩けば、歩くほど、「この街は深いのだろうなぁ~」、そう思った。そして、少し風情の似ている故郷の街のことも、全然知らないことに気が付いた。そうだ、これから、ゆっくり歩いてみよう。折をみて。また、愉しみがふえた。(それにしても、ひとりごとまで自然にアクセントが変わっているのに気付いて、可笑しかった。おにぎりは、「お」ではなく、「ぎ」を強く発音する、といった風に。。。)
かねてより、是非一度、観てみたい仏さまがあったので、そこだけは拝観料を納めた。隣県にある、佇まいのよく似た菩薩さまのように、お堂におひとりでお座りになっているものだと思っていたら、なんのなんの、驚くほど大勢の方々といらっしゃるでは、あ~りませんか。どの仏さまに手を合わせようとも、必ずどなたか別の仏さまにお尻を向けることになる、その設えになかば唖然とし、結局、できなかった。観ているというより、むしろ、(仏さまたちに)観られているという感じがして、妙な按配。時代も違うそれぞれが、こんなにぎゅうぎゅうに詰められて、窮屈に感じたりはしていないのだろうか。そんな心配の方が先にたった。それにしても、ひとの苦しみや、(生きる)難しさは、太古の時代から変わらないのでせうね、と話しかけたいような、そんな気分にもなった。ふと見ると、片隅には、参拝者が願い事を書いたお札が積まれていて、「教員採用試験に受かりますように」「家族みんなが楽しく幸せに暮らせますように」「息子ふたりによいご縁が授かりますように」、などなど。仏さまたちに囲まれた、その空間にいるだけで、穏やかでやさしい“気”をたくさんもらえるようで、それだけで満足だったわたしには、あまりにおかしく映った。(失礼だけど。。)願い事なんて、なんて厚かましい、と感じた自分こそ、ほんとはいちばん罪深いのだろうか。素直に生きて、負うべき“業”を覚悟をしていく。これが、簡単にできたら、だれも苦労などしないのでしょうね。
旅をすると、いつも以上に、食欲、睡眠ともに快調、羽がのびてこころ軽やかになれる、極楽ものである。そしてまた、少ない荷物で、多少の不便を味わうのも一興。ナイフもフォークもなく、一本まるまるのロールケーキをどうやって食べる?とか、スプーンなしでヨーグルトをどうやっつける?とか、知恵の絞りどころは随所にやってくる。浴衣の糸を解いて、切る!とか、パンフの厚紙をちぎって。。というのは、少々やんちゃ?。若いモデルが、「旅先で気をつけるのは、自分を保つこと。自分が自分でいられてはじめて、のびのびと行動できる。非日常に身を置くことは、日常を客観視できる貴重な機会~」と書いていた。もし、ほんとうに自分で書いたとしたら、えらい。旅は、ひとを育てもする、のかもしれない。また、別のある人は、タクシーでまわる近頃の修学旅行スタイルに苦言を呈し、「知らない街を見る、味わうには、そこの生活を知ることが大事であって、その街の『名所』だけを回ったところでしかたがない。それは旅行ガイドを持ってきて、そこに掲載の写真片手に、ああこれが本物かと確認するようなもので、予め抱いていたイメージの再確認があるのみ。なんの発見もない。わざわざその場所に足を運んだ意味が無い。街を知るには、ほんとうは歩くのがいちばん、そこでばったりなにかに出会うのがいちばんなのだ」と。ふかく同感。そういえば、かつて修学旅行が終わったとき、「こんなベルトコンベアーで運ばれるみたいなのはたくさん」と思ったっけ。だから、どんなに格安でもパックツアーはしない、と決めている。老いても、そんな威勢のいい啖呵をきれるおばあちゃんになりたい、ものである。はて、なれるだろうか。