2月は毎日、2分ずつ陽の長さがのびているのだという。午後の日差しの表情は、確かに、日一日と確かなぬくもりを増している。そう感じる。庭の、木々たちも枝につけた芽を、少しずつ大きくしているし、ふきのとうだって、きっと河原のゆきのしたで、しっかり育っているに違いない。限りなく優しい魂の持ち主と出会う春、春動くの春、なぜか、とても懐かしい響きがする。ところで。勉強というのは、すればするほど、自分がいかに何も知らないか、何もわかっていなかがわかるものであり、だから、それを知るためににやっているようなところもあるのだけれど、だから、奥が深くて、知りたいこと、覚えたいことが、次から次からできてくるからたのしいのだろう。ともおもう。大人になると、子供の頃のような、つねに“今”しかない時空間を生きることができなくなるから、“遊び”にしたってやっぱり風情は違ってくる。でも、だからこそ、それにはそれの、味が生まれ、趣がでてくるのに違いない。グリーンの読み方ひとつにしても、やればやるほど、解き方の枝がたくさん見えるようになるし、時には、絶対に解けないなんとかの定理!?みたいなラインだってあることがわかる。
「Bridge」の写真が好きだ。とても惹かれる。なぜだろう。世界中のいろんな橋を集めた写真集があって、ときどき眺めている。自然がつくる色や、風物がいちばんだとおもっているけど、その人工物だけは特別。架け橋。さまざまなひとの想いが込められているような気がするからだろうか。天の川では、ないけれど、そんな切実な想いの象徴のようだからだろうか。そういえば、むかし、木製の橋を舞台にした映画があったっけ。そして、また夕陽をバックにした橋脚のシルエットほど美しいものはない。虹を名にもつはしの下には、通称ビンボーブリッジなる通りがあって、そこを走るとき、とぎれとぎれに見える摩天楼越しの夕陽もまた、味わい深い。はて、あれは夢だったかなぁ。ときに。ほんとうに居心地のいい喫茶店。なかなかない。ある人は、「さてん、とは、孤独になれる場所」だとしている。音楽を聴きに行く店、仲間の溜まり場としての店、さりげなくひとりになりたい(時の)店、あるいは本気で独りになりたい店、と、かつてはそんな風に使い分けることさえできたのに。と。ゆっくり本を読むにしても、心を込めて手紙をしたためるにしても、落ち着いた空間をもらえるところは、ほんとうに少ないと思う。たとえメールでも、大切なひとに気持ちを整えて書こうと思うと、やっぱりそれなりの場所と時間が必要になる。そんな風に感じているのは、わたしだけだろうか。
「60歳のラブレター」の舞台を観たとき、ささやかでもいい、時を経ても変わらないほんとうのおもいを抱き続けられる、美しさ、素晴らしさに沁みた。いつか、自分も、短くてもいい、心を打つような、恋文をしたためられたらと、願っている。そう、60歳になるまでに。そういえばこの前、3夜続けて、まるで大きな流れがあるような夢をみた。いまだに、その余韻から抜け出ていないような、そんな感じがする。(詳しく紹介できなくてちょっぴり残念。)