「疲れたとき、見る夢はふるさとのゆめ~」という出だしの歌があった気がするけれど。。深い夢というのがあるだろうか。朝起きたとき、今日が何日で、何曜日で、今が何時で、どんな予定の日だったかさえ、思い出すのにしばらくかかるほどに、熟睡していたにもかかわらず、起きてもあたまやからだの半分以上が、つい今しがたまで見ていた夢のなかの空気に包まれているような感じで、結局いちにちじゅうその空気をもちつづけたままいるような。そんな夢。ないだろうか。届いた手紙の文面がなんどもなんどもリプレイされているような、不思議な感じ。そう、夢といえば、たいてい夢のなかでは驚くほど流暢に外国語を話す自分がいたり、起きたらすっかり忘れているけど、「おっ、これは大河ドラマより面白い!」とそのストーリー展開の面白さに自ら感嘆して目が覚めたり、ともあれ、夢の中だけでは、とっても多才!なようなのが、愉快というか、可笑しいというか。。。子供の頃は、一度起きても、その続きをまた見たりできたが、さすがにそんな器用なまねはできなくなった。夢診断なる本を、何度か興味本位で手にしたことがあるけれど、いつもその難解な専門用語の嵐に、ほとんど出鼻を挫かれてばかり。まあ、寝ているときの夢だけは、人一倍見ているのかもしれない。だから、そんな深い夢もたまにやってくるのだろう。


「見る」という行為をしているとき、ひとは「見られる」ことには完全に無防備であり、そしてまた、言葉を交わさない以上、それはとても失礼な行為であり(とわたしはおもうから)、たとえば、複数車線のある混んだ道路では、車を停車させるときにも、隣の運転席と少しずれるようにと気をつかうのだけど、でも、それはともすると、無愛想とか、つっけんどんとか、よそよそしいとか、そんな面とも表裏一体なのかしらん。村上龍さんの「ラブ・ホップ」という小説の中にこんなくだりが出てくる。「断りなしに接触したり、間違えば接触しそうな距離に近づいたり決してなかった。」前後の流れは忘れたが、確か、海外(欧米)でのことを言っていたと思う。つまり、空間への配慮。知っている人や、ましてや好意を抱いている人には、ものすごく遠慮ができるのに、その反動なのか、知らない人への配慮ができるひと、自然に身についているひと、ほんとに少ない。そういう人なら、電車で隙間が1センチでも、全然気にならない。が、実にまれ。5パーセントもいるだろうか。ひとの背後を通るとき、たとえ口にしなくとも「後ろ(を通って)すみません」という、「気」を発しているひと、なんにんいるだろうか。視線にしても然り。子供の頃、レストランで先に料理が届いた隣のテーブルを見ていると、「いけません」と叱られたものだ。そういう当たり前の、マナーというか、「気風」「風格」は、いったいいつ置き忘れてきてしまったのでしょうね。(ただ、目の悪いわたしは、薄暗いところで、30ヤードも離れると朧気な風体しかわからない。きっと、幸のほうが多いのだろうが、ときにはとても損してることもあるのやも。いずれにしても「知らぬが仏?」なのだろうか。)