初めて、飛行機に乗ったのはちょうど今ごろの季節。大学一年だった。訪れた、ハバナ市街に程近い小さなリゾートホテルの中庭で、おじさんがひとり葉巻をまいていた。つまり、よくいうところの、実演販売みたいなものだろうか。とはいえ、綺麗に整備されたプールサイドにもほとんどひとはおらず、でも、「老人と海」の文庫本の表紙に描かれているような風貌のおじさんは、熟練にみえる、その手を休めず、ひとりたんたんと、もくもくと巻いていた。恐らく、そのとき葉巻というものを間近で、初めて見た。一本1ドルだという。葉巻はおろか、たばこさえ吸ったことがなかったのだが、言われるままに口に運んでみると、なんともいえない、甘いような苦いような渋いような、フクザツな味がひろがったのを覚えている。のちに、ほかの国も旅するようになり、ヨーロッパの街角や、はたまた空港の免税店で厳重な鍵つきケースの向こうに並ぶそれらが、どんなに高価なものなのかを、ずっと後になって知った。きっと、大人の嗜み、紳士の嗜み、にこそふさわしいいっぴんだったのだろう。
クラブとは、倶楽部と書く。ともにたのしむ場所のことで、最初はイギリスからきた風習だろう。その最たるものは、虎ノ門にあった「東京クラブ」で、紳士たちの集会所になっていた。そういえば、紳士という言葉も近頃は使わなくなったが、使わなくなったのは、いなくなったということで、いくらかバブルとも関係のあることかもしれない。と、白洲正子さんが、書いておられる。ちなみに、そのクラブは今でも、あるビルの中に名残をとどめているが、もちろん昔の面影はない。のだとか。当時の同クラブは、かたくなに女人禁制を守っていた。年に一度だけ家族を招待する日があり、娘時代に行って見る機会があったそうで、「どっしりとしたレンガ造りの建築の玄関を入ると、葉巻と皮張りの椅子の匂いが至るところに充満し、さも居心地がよさそうに、メムバーたちは新聞を読んだり、碁を打ったり、別の部屋では球突きに興じたり、お酒を飲んだりして、会社から家庭へ帰る夕べのひと時を静かな雰囲気の中ですごしていた。」そんな、ゆとりと、滋味豊かな時間と空間に包まれたところをクラブ、と、いうのだろう。本来は、女性が与ることのできないもののようである。
河合隼雄氏が、著書「紫マンダラ・源氏物語の構図」の中で、とても興味深い指摘をされていた。歴史的に見て、だいたい男の方が分析的、客観的な見方を得意として、女のほうが全体的、主観的見方を得意とする。特に、近代ヨーロッパでこの傾向が男性の優位性と結びついて強い力をもつようなった。社会的活躍の場、思考や世界観までが男性優位の状態になったために、女性がそのなかに入り込むためには「男性の目」をもつことが必要となり、欧米の女性のそのような試みの結果、男も女も同等に「男の目」をもつことができることがわかった。でも、「女の目」でものごとを見ることも、それらと同じに意味を持つのではないか、という近代を超えようとする努力の一端が生まれてきた。そして、むろんそれは女性の方が得意であるけれど、男性にももちろん可能である。と。優秀である事を示す唯一の方法は、男と肩を並べることにある!みたいに見えなくもない、マイクの前で演説している女性たちが、決して悪いわけではない、とおもう。ただ、それはひとつにすぎない、ということ。そこらへんを、もっとわかりやすく、噛み砕いて、子供の頃に学べていたらよかったろうなぁ~、とはちとおもう。ちなみに、私があれほど野球が好きだったのは、瞬発力と、想像力、直感力なんかをふんだんに使えるゲームそのものが面白くて仕方がなかったから、であって、別に男の子たちに勝ちたかったわけでも、ましてや男の子になりたかったわけでもない。のだけどなぁ~。あれれ、意図せぬ方向に脱線してしまった。それにしても、源氏物語を書き上げた女性の、すごさにはただただ敬服するばかり。