たまたま立ち寄った本屋さんの、たまたま足を止めた書棚の中で、たまたま目に付いた一冊を手にとり、たまたま開いたあるページの、目に飛び込んできた一節が、そこに書かれていた内容が、頭にこびりついて忘れられない。そんな経験はないだろうか。そこには、こうあった。「若いうちに、自分の視点をもつことができたひとは倖せである。でも、それからの苦労のことをおもうと、先が想いやられる。わたしがかつて、小林秀雄氏から、もらったことばにこうあった。『ひとは、遊んでいるときが一番進歩する』」と。その書き手は、白洲正子さん。タイトルは「夕顔」だった。文献が手元にないので、こまかな表現は幾分、違っているやもしれぬが。人生の中に遊びがあるのではなくて、遊びという雄大なもののなかに人生が浮かんでいるんだ、なんて、なんともおそろしいことを、かつてここで書いた記憶がある気がしないでもないけれど。。。つまり、心の温度、燃え方、集中力が違うんだもん、ってことだろうか、そうひとまず解釈してみた。


たとえば、入り組んだ経路の自動車専用道路の、分岐点近くになって現れる、その先の渋滞状況案内。時速80キロで走っていても、それが目に飛び込んで来てから、分岐点までの間に、取りうるルートをイメージし選択する時間といえば、ほんのわずかだ。それから安全に車線変更する時間を残すとなると、さらに少ない。いささか大袈裟だが、そのコンマ何秒かに頭の中の想像力、イメージ、時間、天候、曜日、そんなこんなを総動員して、判断する。その刹那が好きだ。なぜだかわからない。瞬間に張り詰める緊張感だろうか。どこか遊び心を刺激して、“本気”になる温度が感じられるからだろうか。(ゴルフの打つ瞬間にとてもよく似ている。)でも、ひとは、ふだんつねにいつでも、そんなあっちかこっちかという数え切れないほどの選択を繰り返して、何気なく見える日常を送っているのだろう。高速の、一時も躊躇いや迷いの許されない、そんな状況になってみてはじめて、それと気づくのかもしれない。


そこには、それを撮ったひとの心が映るのではないだろうか。写真である。同じように美しい景色を撮った写真でも、ひとさまにお見せするのであるからとにかく綺麗に取り繕わねはならないとおもって撮るのと、ありのままにそのままに、その風景を美しいと感じ、いとおしいと感じてそのおもいを重ねてとるのとでは、やはりどこかに違いがでるのではなかろうか。確かに、美しい、かもしれない、でも、あくまで一枚の写真(絵)としか感じないものと、まるで、自分がその風景を眼前にしているかのような、その場の匂いや温度や風の具合なんかまでをおもわず想像したくなるものとが、ある、ということを、最近感じた。例えば、絵画にしても、その絵に触れてこころがなんだか動く感じになるのは、つまりそれを描いたひとのこころに感動したということなのかもしれない。読むというのも、書いたひとの、感じ方、考え方、価値観、ものの見方に、そのことばづかいや、息遣い、行間から滲み出てくるものを通して、触れて、共感したり、新しい視点を刺激されたりするのが心地よいから、するのだろう。そこには、必ず、ことばがある。