「はるが~また~くるたび、ひとつ~齢をかさね~」なぜか懐かしい響きがする。このうたが流れていたころ、自分も学生だったような気がするから、ほんとにふしぎだ。かつては、「ふぞろい~」で、それから「あすなろ~」だったっけ。いまは、「はちみつ~」というのをやっている。だれにもある、“あの頃”。それは、“いま”という空間に、思いきり羽を伸ばせる時間のこと、だったのだろうか。“わかい”ってどういうのでしょうかねぇ~。漢字にすると、草の下に右で、右じゃあなくて、ほんとは古じゃないの、だって形も似ているし、って思って、はっとなる。古にくさをかぶせたら苦じゃないの。くるしいの苦じゃなくて、ほろにがの苦だね、きっと。なあんて思いながら、ぶらうんかんのむこうにあふれる、若い顔々をみている。

「休みの日はなにをしているの?」聞かれたことがある。「プライベートが見えないからねぇ~」と言われたことも。それって、興味をもってもらえているってことかしらん。う~ん、たしかに、謎めいた存在への憧れは、あるかも。小説の主人公みたいに。なあんて、ほんとは、ひとと特別かわらない、のに。自分が出した大きな声で目を覚まし、図書館で借りてきたアーティストのディスクをダビングし、詩集を読んで、1年とうんケ月分のコラムをスクラップして、好きな作家さんの、お地蔵さんの絵柄が可愛らしい葉書の文句をせっせとノートに書いた、りしている。いたって平凡である。半径50センチの休日でも、けっこうたのしんでいられる、きわめてふつーなひとなのだけどなぁ~。

贅沢とは?ととわれたあるひとが、こんなふうにこたえを書いていた。「朝ゆっくり起きて、お天気がよく風もない日にゴルフをワンラウンドして、バーディを三つくらい取ってね、それで上がってきて旅館へ行って、きれいなお姉さんにザーッと囲まれてね『う~ん、サーさん、上手なんだから~』ってギューなんてつねられること」なのだそうだ。いいですねぇ~。おとこのひとって。うらやましい。でも、前半部分はたしかに納得。ゆっくり起きてってところも、お天気がよく風がない!ってのもしみじみ同感。そして、ふたつでもよっつでもないんですねぇ~。たしかにみっつくらいきたらどんなにいいだろうって、思うんですねぇ~。わたしの場合、それは「ゆっくり起きてもまだ、朝の陽光が浴びられる時間で、時計も持たずにふらりと、自転車にまたがり、近くの川原をのんびり走り、いきつけの木目のテーブルがあったかい喫茶店で、特別に目玉焼きにしてもらったモーニングなんかを食べて、しばし詩集に没頭し、かえりに図書館に寄って、書棚の間を漂流しているうち、『これ
はきっと運命に違いない!』と思える写真集なんかに出会うこと」、でしょうか。もっとも、いずれも想像のはなし、ですが。。

ちなみにかのひとは、年齢とは「三十過ぎると数えたくないもの」で、老いは「四十過ぎたら考えたくないもの」で、生命は「四十過ぎたらありがたくなるもの」で、青春とは、「年齢でくくられない高揚感の別名」と、いっていましたっけ。「おそらくたぶん/おとこのひとに十のことが見えているとき/おんなには二か三しか見えていない/だからときに目のまえの/いちばんうえの大事なところに気がつけない/すぐには/とんちんかんな返事でがっかりさせる/おとこのひとがみえない不安に包まれているとき/おんなは「とにかく、きっと大丈夫」/おどろくほどあっけらかんと/まったくゆるがず信じることができる/その根拠がいったいどこからくるものなのか/わからない 自分でも/直感なるものだろうか/これがときどきたまげるちからを発揮する/神があたえた力なのか/“鈍感”という名の/そういえば「金」を「糸」にしたら“純”になる/「糸」は紡ぐもの、織るもの/心をこめて“かたち”にするもの」休みの日は、こんなことを、している。