“おしゃべり”の電池が、時々切れる、のではない。あたまのなかに、こころの中に、ことばがなくなる、のではない。はんたいに、あふれてしまう。あふれたみずに溺れるごとく、しばし、どうにもことばがみつからなくなる。たぶん、いまも。そう。詩人とは、ことばの深みに挑む人たちだろうか。深みとは、可能性とも言えるのかもしれない。
「霧の朝」という詩がある。「暗い冬に耐える優しさのために/凍った風のなかの希望のために/梢に拡がる空にむかって/鳥を放とう 晴れた朝に/別れが いつも次の出発になるために/黒く光る銃を磨こう/蹉跌がいくつも積重って虹を創り/やがて 素朴な歌になるまでに/愛が耐えることを教えるように/どこかで鳴りつづけている鐘がある/苦しみは決して減りはしないが/人生にだって意味はあるのだ/ /重い霧がやってくる朝/僕はひそかに武装を整える/危機を孤りで走るために/そのことによって/いつかくる再会を飾るために」
社会的にもえらい(に違いない)ポジションをつとめながら、かたや詩人であり続けたひとの、しなやかさ、つよさ、やさしさ、おもいの深さだろうか。いまのわたしになどにはきっとはかりしれないふかい意味やかなしみがそこにはこめられているのだろう。でも、なぜか、その一編からしばし目が離せなくなった、そんなちからのようなものを感じた。「虹の岬」、読んでいる。
“熱”にうなされるのは何年ぶりだろう?初めて知恵熱にかかったのは4歳のとき。だったっけ。9度6分。それがどれほど高いのかもわからず、ただうなされていた。以来、たよりない記憶を辿ると、7年周期で知恵熱にヤられているような。前回はたしか02年だから、1年フライイングなのだけど。。8度5分、はあれは夢だったのか、もしれない。「想いを自在に変化させ乍ら、熱を失わない。そんな恋でありたい。そうすることで、常にその美しさを失わない。多分、愛することもこれと同じ」。ある謌のライナーノートにあったそんな一節を思い出した。ところで、知恵熱って賢くなれる熱のことでしたよねぇ?
「霧の朝」という詩がある。「暗い冬に耐える優しさのために/凍った風のなかの希望のために/梢に拡がる空にむかって/鳥を放とう 晴れた朝に/別れが いつも次の出発になるために/黒く光る銃を磨こう/蹉跌がいくつも積重って虹を創り/やがて 素朴な歌になるまでに/愛が耐えることを教えるように/どこかで鳴りつづけている鐘がある/苦しみは決して減りはしないが/人生にだって意味はあるのだ/ /重い霧がやってくる朝/僕はひそかに武装を整える/危機を孤りで走るために/そのことによって/いつかくる再会を飾るために」
社会的にもえらい(に違いない)ポジションをつとめながら、かたや詩人であり続けたひとの、しなやかさ、つよさ、やさしさ、おもいの深さだろうか。いまのわたしになどにはきっとはかりしれないふかい意味やかなしみがそこにはこめられているのだろう。でも、なぜか、その一編からしばし目が離せなくなった、そんなちからのようなものを感じた。「虹の岬」、読んでいる。
“熱”にうなされるのは何年ぶりだろう?初めて知恵熱にかかったのは4歳のとき。だったっけ。9度6分。それがどれほど高いのかもわからず、ただうなされていた。以来、たよりない記憶を辿ると、7年周期で知恵熱にヤられているような。前回はたしか02年だから、1年フライイングなのだけど。。8度5分、はあれは夢だったのか、もしれない。「想いを自在に変化させ乍ら、熱を失わない。そんな恋でありたい。そうすることで、常にその美しさを失わない。多分、愛することもこれと同じ」。ある謌のライナーノートにあったそんな一節を思い出した。ところで、知恵熱って賢くなれる熱のことでしたよねぇ?