「ねぇ、男のしあわせって何だと思う?」で始まる、あのCMが結構好きだ。あれにならうと、わたしは、こうしている時間がとてもしあわせなんだなぁ~と、しみじみ思う。ついでに、「ときどき、ここに逃げてきてもいいですか」のフレーズもたまらなくいいと、思っちゃったりするけれど。。ともあれ、井戸端談話がとても、懐かしい。研修生の拘束時間が終わると、「練習は~??」の、仲間の冷たい顰蹙をよそに、近所の犬の散歩にと出かけ、それから、いつもの喫茶店で、のんびりしてた。近くに住む同い年の、3人の男の子のお母さんなどには、「いったい何を話すの?」と、心底不思議な顔をされたものだが。歳も職業もバラバラのオジサンたちとよくお茶していたものだ。特段、何を話すでもない。誰かが話すのを新聞片手に、ふ~ん、と聞いていたり、時折、ひとことふたこと思った意見を言ってみたり。自分から、「あのね、そんでね」というわけではない、(と思う)。そして、「今日お客さんに『キャディさん25歳ぐらい?』って言われた~」なんて話すと、すかさず「そ~んなもん、お世辞に決まっとるがな」と気持のいい返事が返ってくる。女同士の、本音を包んで箪笥にしまってきたような会話、にはないものがあり、そんな心地よさがあった、のかもしれない。例えは悪いが、学校時代の保健室のような、ホッとする時間と場所って、案外とても大切なのだろうなぁ~。このごろ毎日思ってる。


「無駄が極上をうみだす」。7歳から働き始めたという、職人の神様のようなひとが語っていた。「不器用だからこそ、ここまでこれた」とも。とても印象的だった。なんでも、かんでも、時短、便利ばかりが当たり前になって、はたしてそこまで短縮して省いて得た時間は、ひとは何に費やしているのだろう。なんの肥やしにしているのだろう。コンビニといういものが津々浦々まで浸透して、日本中どこにいても同じ味のものが並んでいて、若者ことばもあっという間に広まって、土地柄や、郷土独特の個性なんかがどんどんなくなって、風土にあった暮らし方、慣習なんかもそのうち消えていってしまうのだろうか。名前が消えても、その業績、自然がなくなるわけではないけれど、こころやことばをなくしてしまっては、誇りが、甲斐が、尊厳までが、なくなってしまうのではないだろうか。そう、わけもなく、そんな老婆心を感じてもいるきょうこのごろ。でも、ある。

 でも、ほんとうに書きたかったのは別のことで。たとえば、見ているテレビに(元)天才ジュニアたちが登場すると、「みんな小さいころからやっていたのよねぇ~」。これなどは、まだやさしい方である。そのことばの、棘に、目こぼれした鋸をじわぁ~と肌に押し当てられたような鈍い痛みに、ずっーーとこころの底のほうに残るものに。恐らく口にした本人は、気付いていない。(だから、余計ひどい、とも言えるが。。)。別に、今となっては傷つくということではないのだけれど、そういうことを口にすること事体、(つまりそういう風に思っていること事体)が、ものすごく配慮に欠けている。一事が万事だから、多感な思春期の頃はほんとに心底きつかった。

 言葉とは、ときに、ほんとに心を慰め、和ます何よりも上等な贈り物にもなるけれど、同時に、その全く逆の力を発揮してしまうこともある。大好きな、言葉というものに、そんな風に傷つけられることが何よりもつらかったのだろう。20代のころは、そんなホトトギスをなんとか黙らせる方法はないものかと、ものすごく腐心していた(ように思う。)やっと、近頃、すべてを受け止め許せばいい、のだとわかってきた(でも、そう簡単に出来るものではないけど)。でも、じぇーーんぶ、正面から受け止めていたのでは、仮に鋼のこころをもっていても3日ともたないだろう。これも、きっと神さまが我に与えた試練なのよのぅ~。と、思うように努めている。

 あるひとがいいことを言っていた。「言ってわかる人には言わなくてもわかるし、言わなきゃわからない人には言ってもわからない」と。ほんに、見事である。そしてその通りだとも思う。理解とは、言葉の表層だけを超えた深い深いものがある、のだろう。そして、こころにも。

 っと、いつになく、井戸端~よろしく、恥ずかしながら、そして何より、読み手への思いやりに甚だ欠ける書き方で綴ってしまいました。(でも、こうして心を整理して言葉を綴るだけでもかなり、心は軽くなるからことばってほんとに不思議な力をもっているものなのですねぇ~。)最後まで、おつきあいいただきほんとうにすみません。