なぜだか、ふと、ふきよせがこころに浮かんだ。さいしょ、その名前がすぐには思い出せなかったのだけど。詳細な、色も形も、そして味さえも記憶の靄にかかっている。それでも、わたしの覚えがもしまちがっていなければ、それは、関西の老舗菓子店がだしていた、和洋折衷のようなお上品なお菓子で、おかきともあられとも、ぼうろとも少し違う、お茶受けで存在感を発揮するバウムクーヘンとも、羊羹とも違う、ほんのり、場の雰囲気を和ませてくれるような、そんな特別な印象を残している。正確にはどうだったか、定かではない。まだ、その味が分かる年頃になる前の、恐らく保育園に行く前に一度だけ、目にしたようなそんな気がしている。永らく、大切なおもちゃをしまっていた金属製の円筒(カンカンと呼んでいた)が、そのふきよせのものだった。だから、記憶に刻まれていたのだろうか。そして、どうしてそれが浮かんだのかも、さらに輪をかけて定かではない。1時間しか、眠っていない頭の思うことなど、さして意味も価値もないのかもしれないけれど、なぜだか、ふと、そのことを書いてみたくなった。


そして、疲れた頭は考えた。暮れなずむ街の、光と影が織り成す風景を眺めながら、住宅公園に建ちならぶ家々の窓からこぼれる、やわらかな間接照明の灯りを見るとはなしに、ぼんやりみつめながら。いえって、いったいなんだろう。ただ、夜露をしのぎ、他人のプライベート空間とをしきるだけの壁であるなら、なにもいえという体裁をとらなくてもいい。そこに暮らすひとが窮屈でないだけの広ささえ確保できれば、べつにいえでなくてもいいのかもしれない。でも、思う。いえとは、そういう物理的な砦(安全なスペース)ということもさることながら、こころの鎧とか、いろんな背伸びとか見栄とか、そんなこんなのつまりはしがらみ(?)を、脱ぎ捨て、裸の自分に戻れる場所、なのだろう。だから、余計なものがいっさいなくチリひとつないホテルや旅館の部屋でもいけない、だからといって、足の踏み場もないような散らかった場所でもいけない、うまくいえないけれど、つまり、呼吸が静かに穏やかにいられる場所、ホッと息をつき、和み、憩い、寛ぎ、また外へ出て行くための英気を養う場所。そんな、目に見えない気持の安らぎをもらえるたいせつな場所なのだろう。ふと、思った。